17.良いお手前で
「宝の家はね、父子家庭なの。お母さんが16歳の時に産まれたのが宝なんだけど、産むだけ産んでお母さんは宝を捨てたんだって」
「可哀想でしょ?」と同情に溢れた言葉が三枝のリップで色づいた唇から紡がれる。ひかりはなにも言わない。ただ、あの雨の日に灰司が言った「可哀想だよね」とは全く意味合いが違うように聞こえた。
「宝のお父さんも若いから、再婚しては離婚を繰り返して、宝に嫌な思いをさせてきたらしくて……だから母性にすっごい飢えててあたしたちにそれを求めてるの。あたしたちは勿論応えてあげる、そんな子だけが宝の近くにいれるから」
自己陶酔しきった甘ったるい声に一度おさまったはずの吐き気がまた襲ってきた。カロリーが高すぎる。保健医なんてやめちまえ、ひかりはこの世界観を作った犯人を呪った。
三枝は緩く巻かれた髪を指先で弄る。その際に彼女のインナーの襟がたわみ、肌が大胆に露わになると、ひかりは彼女の鎖骨に赤い鬱血した痕を見つける。キスマークか。彼女と胡桃への軽蔑が一層増した。
「お母さんごっこしてあげてるんですね」
ひかりはわざと優しい声色で同調する。すると気を良くした三枝は得意げに胸を張った。
「してあげてるとかじゃない。好きだから自然とそうなっただけ」
「でも多分馬鹿な女だなって思われてますよ」
ほぼ条件反射で出てきた嘲笑を取り繕う余裕はなかった。三枝は一瞬ぽかんとした後、言葉の意味を理解し、見る見るうちに顔を真っ赤にする。ひかりの頭の中で無意識にカーン! とゴングが鳴った。開戦の音だ。
「ハァ? 意味わかんない」
「本気でそれ信じてるんですか? そうやって同情を引いて、色んな女と遊んでるのを許してもらってるようにしか思えませんけど」
「あんたは宝の苦しみを知らないからそう言えるだけじゃない? 負け惜しみにしか聞こえない」
「ええ、知りませんし、実際本当に好きだったので悲しいです。だけど母性の飢えを性行為で満たしてるのは心底気持ち悪くて……」
そう顔を顰め、ひかりは三枝の鎖骨辺りを指さした。三枝はそこに何があるかが分かるのか、焦ったように自分の襟元を上へ手繰り寄せた。
以前胡桃が言ってたシオリは十中八九彼女のことだ。疲弊しきった頭は妙に冷静に動いた。悲しみより先にこの状況を乗り越えなければ、とひかりを守ってくれているようだ。
「母親の代わりをしてやるのなら、甘やかすだけじゃ駄目だと思いますよ。宝先輩のためにならないんじゃないですか?」
「……! 知ったような口きかないでよ! あたしたちは宝の理想のお母さんにならなきゃ、そばに置いてもらえないの!」
ギリリと歯を食いしばって、ひかりを睨みつける三枝。その瞳は濡れて揺らいでいる。本当は彼女だって理解しているのだろう。ほんの少しだけひかりは彼女に同情した。
「それでも宝先輩のお母さんはこの世で一人だけです。あなたがどれだけ彼を愛したって、宝先輩にとっては大人数いるうちの一人ですよ」
そもそも、そんなのよくある話だ。まだ大人になりきっていない子供が子供を産んでしまい、親になる権利を放棄する。子は親を選べない。胡桃はひかりの知らぬ所でたくさん泣くような思いをしたのかもしれない。その点に関しては胡桃に同情するが、ひかりからすれば彼の設定の一つでしかないし、不特定多数の女と遊んでいい理由にはならないだろう。彼が女と遊びたいが為にその設定を利用した、と思うのも仕方ないとひかりは自分を肯定した。
三枝は発狂するでもなく、なにも言わず俯いている。もうここに居ても意味がないと判断し、ひかりは壁にかかった時計を見ると時間は進んでいた。
やった、と打ち震える喜びに立ち上がる。失礼しましたとだけ声をかけて、立ち去ろうと扉を開けば、その先には何故か胡桃が呆然と立ち尽くしていた。
「な、にしてるんですか?」
思わぬ来客に声が震える。胡桃の顔は真っ青だった。
「……宝!? 聞いてたの?」
そんなひかりの声に三枝も胡桃の存在に気づいたようで、パニクった様子でぞんざいに近くのひかりを突き飛ばし、胡桃に駆け寄った。
「人の家庭事情をぺらぺら喋るなよ」
彼らしくない抑揚のない声。場が一気に凍った。ひかりは無意識に自分の腕を抱いて服の上から撫でるように摩る。
「あ、ご、ごめんね……っ! この女が何にも知らないから、つい」
「つい話していいような事ってなに? 父さんの事を脚色するなんて……」
柔らかかった垂れ目が鋭く三枝を見下す。その態度を見て、ひかりは先ほどの話が本当の事だとやっと分かった。
三枝は胡桃の冷たい反応に、腕に縋り付きひたすらにごめんね、ごめんねと謝っている。
まるで甘やかして育てた息子が反抗期を迎えてしまい、困惑する母親だ。彼の言いなりにばかりなっていたから、他の対処法を知らず、許しを乞うことしかできないのだ。それ見たことか、ひかりはほくそ笑む。
「ひかりちゃん」
「へ?」
胡桃が完全に蚊帳の外であったひかりの名を呼ぶ。ひかりに向けられた胡桃の眼差しは暗く、不安げだ。
「母親は必ずしも子供を愛すものだと思う?」
なんだその質問。ひかりは摩っていた二の腕をぎゅっと掴んで答える。
「いえ、だとしたら虐待とかネグレクトなんて起きないんじゃないですか?」
他人事のように言いのけた。血が繋がっているだけで、親も生きているただの人間だ。母性、父性が宿らない人間だっているだろう。
その答えにくしゃりと悲痛に染まる胡桃の表情筋を。なんだかこちらがいじめでもしているような気分にさせられた。
「じゃあ俺はどうしたらいい?」
「どうしたらって?」
「俺のこと捨てたくせに、母さん再婚するんだ。子供も出来て、幸せそうだって父さんから聞いた」
両手で顔を覆い、痛々しい声がその両手の隙間から漏れる。目の前にいる胡桃はまさしく子供だった。
けれど、ひかりは他人事をやめない。
「許せないですか?」
「え?」
「腹が立つのなら少しでもスッキリするためにぶつけにいきましょう。でもそれに罪悪感を覚えるのなら時が過ぎるのを待てばいいのでは?」
マニュアルみたいなアドバイス。でもひかりが胡桃の立場ならそうするから言ったのだ。
胡桃とその母親だけの問題ならそこで解決するしかあるまい。あまりにも中身のないアドバイスに何か言いたげな三枝は無視して、ひかりは愛想の良い笑みを意識して続けた。お前の代わりに私が叱り方を教えてやる、とでも言うように。
「あなたのハートの傷は母親で出来たものでしょうし、あなたの世界には母親とあなたの二人しかいないみたいですから、そもそも私には解決できません。何にせよ二人の問題なら二人で解決するべきです。……――他人を振り回していちいち甘えないで」
そう言い放ち、ひかりは二人を横切って保健室から出て行く。
背後からは三枝のひっと息を呑む声が聞こえたような気がしたが、今のひかりには周りを気遣う余裕なんてかけらも無い。
ああ、自分勝手な女でつくづく良かった。
ひかりは首にかかっていたタオルを近くのゴミ箱に投げ捨てた。




