16.保健室へ向かいましょう
ハッと目が覚めて、此処が現実世界じゃない事にひかりは絶望した。
場所は下駄箱。箱の中身はほぼ空っぽであった、ある一箇所以外は。
目に入った黒のローファーが入る下駄箱には、蘭咲の出席番号が貼り付けられている。ついさっき見たばかりの悪夢がよみがえり、ひかりは反射的に口元を手で押さえた。胃からせり上がる物に耐えながら、外履きのまま床を蹴って走り出す。
はたして、あれは夢だったのだろうか? だとしたら胸糞悪い夢だ、自然と逃避する思考が馬鹿らしくて目の奥がじわりと熱を持つ。じっとりと全身に滲む冷や汗が、あれを嘘だとは認めさせてはくれない。
人の気配もしない廊下にひかりの足音だけが響く。走り去る景色はゆっくり過ぎ去っていき、その中に1-Aの文字も見えた気がしたが見ないフリをする。
まず吐き気をどうにかする為にトイレを探した。けれど何故か見当たらない。途中、見つけた職員室に飛び込んでもみた。誰もいない。他の教室も同様だ。ひかりはどうしようもない焦燥感に打ちひしがれたが、ナナコにはもう助けを求めなかった。どうせ返事はない。肝心な時に彼女はひかりを助けなかった。それに返事があったとして『教室にいきましょう』なんて言われれば、立ち直れない。本当はそっちが本音だ。
時間が経ってるのかはわからないが、体感で十数分ほど経った頃、ひかりはようやく光る場所を見つける。体育館に繋がる渡り廊下の扉の前にひっそりとある保健室。また無人かもしれないなんて不安を抱えながら、疲れきった体を引きずって中に入った。
「……――失礼します」
律儀に挨拶をしたのは期待からだ。扉を開いた先の清潔な匂いがひかりの心を和らげた。
一歩足を踏み入れ、室内を観察する。ひかりの声に返事はなく、静かなままだ。光るものを感じたが、予感はただの予感だったのかとソファに座り、萎む気持ちと一緒に膝を抱える。
と、そんなひかりに応えるようなタイミングでガラリと保健室の扉が開いた。
「何してるの?」
「……! あの、たす……」
若い女性の声にひかりはパッと顔を上げる。間髪入れずに助けてください、と言うつもりだった声が衝撃で止まってしまった。
今のひかりはさぞ間抜けな顔をしているだろう。
「あれ、この前、宝と一緒にいた子だよね?」
希望に満ちた瞳に映ったのは、先日胡桃の前で値踏みをしてきた女の人だった。
***
物語は最悪の形で動いてしまう。
だけど、さっきよりはマシだとひかりは呆然とする意識の中で自分を励ました。
「なに? 無視しないでよ」
「……や、いるとは思わなかったので」
苛立ちを隠そうともしない女性の声に、思ったより冷静な声で対応できた事に驚く。ひかりの可愛げのない反応が気に食わなかったのか、女性は派手な身なりには似合わない白衣姿で舌打ちをした。
「いるとはって、あたし保健医だし、そりゃあいるでしょ」
"三枝 詩織"、胸元の名札に記載されているのが彼女の名前だろう。その上に小さく保健医と印刷されているのを見つけ、ひかりは世も末だなと学校の行く末を勝手に嘆いてやった。
「それで、喧嘩でも売りにきたの?」
「え?」
「こんな朝早い人のいない時間帯に来るって、宝の事でしょ?」
驚いた。この人、自分が知られてるのを当然だと思って話している。大した自信に愕然としていると、その反応を図星と捉えたらしい三枝はひかりの隣に腰をかけて続けた。
「言っとくけどあたしは邪魔したわけじゃないから。あの日、映画館にいたのは偶然だし」
「そんなこと聞いてません」
「じゃあなに? どんな関係ですか? とか泣きにきたわけ?」
「私は純粋に保健室を利用しようと……」
「はあ、いるんだよねえ、こういう誤解しちゃう子。宝が優しいからって自分が特別だと思ってる子」
意見を遮って邪魔した三枝の声はわざとらしくひかりを見下した。最初から人の話など聞く気はなかったようで、彼女は自分勝手に口を開くのをやめない。自信のある人間の為せる技だと諦めたひかりは、話を聞く方向にシフトチェンジする。何故なら選択肢がこれか教室に行くかしかなさそうだからだ。決して言いなりになるわけではない。
「宝はみんなに優しいの。自分が愛されたいから、苦しんでるから、ね」
知らねえよ。
シフトチェンジして早速だが、三枝の自分に酔った口調にひかりは苛立つ。優しくない人間にそんな話をするな、顔を顰めるも彼女は気づかない。




