二次創作において自らの設定で脳が焼かれ現実(原作)から遊離する
ある作家の絵柄が変わるということが多々ある。
これは腕が上がったとか下がったというよりも変化したと言うほうがより正確であろう。
描き続けていくうちに変化していく。同じキャラであるのにどんどん顔が変わっていくという現象は読者の方々もご存じのはずである。
では元に戻せるのかと言えば、戻せない。意識しないといけないし手のかかるとのこと。
いきなり二十歳のころのあなたが好きだったので戻ってくださいと言われても戻れっこないのと同じこと。
だがファンやアシスタントやらがその頃のコスプレとかをしますということで似たものを書くことは多々ある。
物真似芸人もそれで人のものは改造しちゃいけないために変化はさせない。借り物である以上はより正確に再現を目指し観客もその頃のものを望むので両者はハッピーだ。
しかし作者本人は自分のものである以上は好きなように改造できるし原形をとどめなくても構わなくもできる。劣化? いいや進化だよ。
それで寂しがる人もいるが本人は不思議そうな顔をする。自分は自分であるのに、と。
それに対してあの頃が良かったと返される。
またこうも言える。その初期の頃の絵柄は果たしてその作者にとって本物であったのか?
もっと言えばこうだ。人の顔はいつのころがその人本来のものであるのか、と。
人は果たして自分はいまの顔が本当の自分だとはっきりといえるのだろうか?
もしも若い頃の美しかった頃の自分の顔こそが真実だったんだと言っても、なら今の比較して醜くなった顔はあなたではないとしたら、あなた誰? と言える。
実在する怖い話にこういうのがある。あるパーティーで老女が写真を取りだしてこう言った。
「私はこんなに綺麗だったのですよ」と若い頃の写真を見せてアピールするのであるが、果たして何を考えてそうしているのか?
個人的にいつまでも忘れらないエピソードでありそこの判断はそれぞれの胸のうちに委ねるが、ともかく三男は自分の中にある天女の美と自分の絵と一緒になりつつある。共に変化していく。
創作は読者に影響を与えるというがまず第一読者である作者本人に影響を与えるのである。
詐欺師は自分の嘘を先ず信じるように陰謀論者が自分の陰謀論を信じているように、心にもないことを真剣にちゃんとできるほど人間は割り切りが上手い器用な存在ではない。
歩くなと考えながら歩くのは酷く気持ちが悪いのだ。だったら歩けと思った方が脳にとっても心にとっても抵抗感がなくなり心地良い。
だったら嘘だと思わずに真実としたほうが効率的かつ合理的だ。よって嘘を承知で陰謀論は始めはともかく次第にやりにくくなる。
インチキ商売で人を騙すために陰謀論を振り撒く悪党は結局のところそこまではいない。
自分は悪事をしていると承知で悪事をするとは逆に倫理的な人でありその意味において善なる存在であろう。
悪と善を混ぜずにちゃんと区別している。大抵の人はそこに耐えられずに混ぜるしなんなら逆にする。
歌舞伎町では「騙される方が悪い」と真顔で語る人がそれである。善悪が逆になる倒錯さ。
だからこそ問題なのだ。善意と正義でデマや陰謀論をばらまく。
受け取る側もこの人は嘘や詐欺を言っていないと感じるから信頼してしまうのだ。
こんなに真剣に言っているのだから嘘なはずがない! 情報の中身よりも態度の良さで人は信じてしまいがち。
俺の陰謀論に騙されやがってこの情弱の間抜けが! という悪党はそんなにはいない。
陰謀論者が全員悪意のある奴であるならいいのだがそうではない。そうイメージしがちだがこれもそうだったらいいのにな、である。
そもそも自己の説を陰謀論だと自認することはない。世界の真実と自認するのだから、陰謀論だと気づくはずもない。
陰謀論者はこう言う「デマや陰謀論は許せない」と。いじめの加害者はこう言う「弱いものいじめは許せない」と。
だからあなたのはそうではありませんと指摘すると驚くし怒る。悪いと知りながらやっていました、さぁ裁け! なんて殊勝なことは言うものはそうそういない。気骨のある犯罪者として名が残るであろう。
だがほとんどが悪いことだとは知りませんでした……これである。とにかく彼らは知らなかったか「俺は悪くない」だけしか言っていない。
裁判所とかで散々に詰めてようやく自分は悪かったと反省することがよくあるのはそういうこと。
悪の自認とはかくも困難なものと言える。
さて、三男である。彼はいわゆる二次創作の世界に浸り過ぎたせいで原作の読み返した際「あれ? このキャラってこんなんだっけ?」とか「あれ? あの台詞って原作に無かったの?」と一次創作と二次創作がごっちゃになり呆然としてしまう作者になってしまい、ほぼ現物を見ても分からず無反応状態になっているのである。
二次創作では「自分にはこう見る!」という力が強く働いてしまい、自分の要素を詰め込みなんなら自分のものにしてしまう借りパク現象さえ発生する。
ハマーン・カーンとこの間の作品の主人公とが同世代とかあり得ない。現代的に考えて5つほど加齢させたらシャアと年齢が近づくからちょうどいいね、とかいう非常に大きなお世話をしたくなるのが二次創作の恐怖である。
そこにはあの「そうだったらいいのにな」が溢れておりしかも書き換えることが容易なのだ。そして作者が先ず己の設定で脳を焼かれる。
私自身二次創作を十年近くやっていたがそれはもはや原形をとどめていない、と想像できるので原作を確認するのが怖くてできないでいる。
たまに原作勢と純粋に原作を話したがる二次創作側の人の気持ちは狂気に陥るかもしれないという心配からでもあろう。
そこにある世界というべき原作を見ずに、そこにはない世界ともいうべき二次創作のみに浸かり続けると元に戻れなくなる恐れ。
そう、それはあたかも陰謀論にどっぷりと漬かってしまい現実と摩擦を起こしてしまった人のようであって……
ここで閑話休題、というのは不適当であろう。メインとなっているような余談はもはや本談。
本当にそれはさておき三男の視線に戻る。彼はサビを見る、そして何かを思い出す。次回、美の裾、醜の陰。




