009 湯気を着た噂は王都からやって来る
エリシアが正式に会計長補佐となって最初にやったことは、新しい帳簿ではなかった。
会計室の前庭に長机を三つ並べ、木札を立てたのだ。
「未払い相談」「徴税確認」「物資不足申告」
それを見たサイラスが、なんとも言えない顔をした。
「役所の窓口を、外へ出すのか」
「中へ入って来られない人が多いので」
砦の役所は兵士と貴族の空気が強い。商人や職人はともかく、農家の女や遺族、読み書きに不慣れな老人は、扉の前で引き返してしまうことも珍しくない。
ならばこちらから出る方が早い。
前世でも、結局一番効いたのはこれだった。様式の改定より、説明会より、「話しかけていい場所がある」と示すこと。
「噂になりますよ」
とノエル。
「なってもらわないと困ります」
結果として、その噂は想像以上に早く広がった。
昼前には長机の前に十人、二十人と列ができる。手にした紙切れは請求書だったり、税票だったり、ただの走り書きだったり、時には記録すらなく口頭説明だけの人もいた。
「夫の戦死手当が二月分で止まっています」
「門税を二重に取られました」
「工房の薪代が補助されると聞いたのに」
一件ずつ聞き、必要な書類を書き起こし、できるものはその場で再計算する。
ミラは列整理と案内、ノエルは控え台帳、サイラスは騒ぎになりそうな案件の聞き取り補助。ルシアンは基本的に離れていたが、遺族や負傷兵が来る案件だけは自ら顔を出した。
そのたびに列のざわめきが静まり、代わりに奇妙な熱が広がる。
領主が自分たちの支払い表を見るなど、ここの人々にとっては珍しい光景なのだろう。
査察官エドガーは最初、露骨に嫌そうな顔をしていた。
「監査対象の資料が増えるだけでしょうに」
そう言いながらも、途中から列の内容を黙って覗き込むようになった。
とりわけ、同じ商会名や同じ門番名が何度も出るのを見ると、眼鏡の奥の目が僅かに険しくなる。
「これ、控えの様式が全部違う」
午後、彼がぽつりと呟いた。
「統一されていないから、照合が難しくなる」
「はい」
とエリシア。
「だからこそ、意図的に崩したのでしょう」
エドガーは言い返さなかった。
否定できる材料がないのだ。
日が傾く頃、湯気の立つスープ鍋を抱えた女たちが差し入れに来た。
長机の周りで待たされている人々へ配るためだという。
「冷えるでしょう、書記官様」
「ありがとうございます」
紙の匂いと湯気の匂いが混ざり合う。誰かが「こんなに人が来るなら毎週やってくれ」と言い、別の誰かが「いや、毎日でもいい」と笑った。
前庭には、確かに噂が形を持っていた。
会計室へ行けば話を聞いてもらえる。
名前を消されても、帳簿を起こし直してくれる。
その噂は湯気をまとって、人から人へ移っていく。
夕方、最後の相談者が去ったあと、エドガーがぽつりと告げた。
「……監査局にも、こういう窓口が必要かもしれませんね」
意外すぎて、エリシアは一瞬だけ手を止めた。
「作ると良いかもしれません」
「簡単に言いますね」
「簡単ではありません。でも必要です」
エドガーは薄く息を吐いた。
その横顔からは、王都で見せていた軽薄さが少しだけ落ちている。
彼も彼なりに、現場の声を聞いたのだろう。
しかし、その夜に起きたことは、その小さな変化すら吹き飛ばした。
会計室の窓が割れたのだ。
深夜、ミラの悲鳴で飛び起きたエリシアが走り込むと、書架の一角がひっくり返り、灯り皿が落ちて小さな火が上がっていた。ノエルが毛布で必死に叩き、ルシアンとサイラスが侵入者を追っている。
「水を!」
叫びながら、エリシアは真っ先に赤鍵の庫から持ち出していた写本束へ飛びついた。盟約台帳そのものは税庫に戻してある。だが、消えた村の写しと蜂蜜税の別帳簿、王都宛書簡の控えはここだ。
一束欠けている。
「……取られた」
代わりに床へ落ちていた紙切れを拾う。
焦げた端に、白鐘修道院という文字が残っていた。
「ローウェル!」
廊下の向こうからルシアンの声がする。
外へ飛び出すと、裏庭で一人の男が押さえつけられていた。黒装束の細身の男だが、歯を食いしばったまま一言も喋らない。
サイラスが怒気を含んだ声で言う。
「王都式の隠密だ。毒も持っていた」
エリシアは男の袖へ触れた。
――白鐘の頁だけ持ち帰れ。
――他は焼いていい。
――命令は大臣府経由だ。
やはり、財務大臣府。
「白鐘修道院、という名に聞き覚えは」
問うと、エドガーが青い顔で頷いた。
「王都中央文書館が焼けた時、古い契約写本の一部が地方修道院へ分散保管された。その一つが白鐘です」
ルシアンが即座に判断する。
「そこに盟約台帳の写しがある」
「ええ。しかも、向こうもそれを知っている」
盗人が狙ったのは偶然ではない。こちらが消えた村に辿り着いたから、次の証拠を先回りで押さえに来たのだ。
会計室の火はすぐ消えたが、紙の焦げる匂いはしばらく残った。
エリシアはその匂いが嫌いだった。前世でも、隠したい人間ほど書類を燃やした。
ルシアンが足元の焦げ跡を見下ろしながら言う。
「明日発つ」
白鐘修道院へ。
エドガーが口を開きかける。
「ですが王都からの――」
「資料を奪いに来たのは、そちらの都合だろう」
冷たく言い切られ、エドガーは閉口した。
エリシアは拾い上げた紙片を強く握る。
白鐘修道院。
そこにある頁が、本当に消えた村と盟約の証拠なら、次は奪う側より先に辿り着かなければならない。
仕事はいつだって、椅子に座っているだけでは守れない。
だから明日も、現場へ行く。




