008 椅子に座るだけでは守れない領地がある
王都監査局の査察官が到着したのは、翌日の昼前だった。
黒塗りの馬車から降りたのは三人。
先頭に立つのは、細身の青年貴族で、髪をきっちり撫でつけた顔に自信と軽蔑を同居させている。金縁の眼鏡までかけていて、いかにも“数字を扱う自分は賢い”と言わんばかりの男だった。
「監査局第四室査察官、エドガー・レヴェントです」
彼はエリシアの顔を見るなり、口元だけで笑った。
「ああ、あなたが例の。王都で問題を起こし、こちらへ逃がされた書記官ですか」
開口一番、それである。
王都の空気をそのまま瓶詰めにして持ってきたような男だ。
「異動命令に従って着任しただけです」
エリシアが淡々と返すと、エドガーは肩をすくめた。
「言い方はいろいろありますからね」
ルシアンが一歩前に出る。
「査察の目的を」
「もちろん、辺境会計の混乱収拾です。門税の停滞、補給費の再計算、市場取引への介入、さらには古文書庫の無断閲覧まで。王都としては看過できません」
無断閲覧、とはよく言う。
閲覧権限はルシアンが与えているのだから、彼らにとって気に入らないだけだ。
「帳簿は見せます。ただし順番があります」
エリシアが言うと、エドガーが目を細めた。
「順番?」
「未払い遺族手当と、本日締めの兵糧支払が先です。そこを止めると人が困ります」
「監査より優先される仕事はありません」
「あります。生活です」
周囲の空気が張り詰めた。
王都なら無礼と取られかねない言い方だ。だが砦の兵士たちは、露骨ではないにせよどこか期待するような目でこちらを見ていた。
エドガーは鼻で笑う。
「感情論ですね」
「実務です」
エリシアは机上の一覧を差し出した。
「本日未払いのまま夕方を越えると困窮する世帯が八。明朝の兵糧搬入と連動する支払案件が六。ここを止めると明日の配給が乱れます。査察資料の整形はその後でも間に合います」
整然と並んだ案件表に、エドガーの目が一瞬だけ止まる。
彼は軽蔑を崩さなかったが、少なくとも“何も分からない左遷令嬢”ではないと理解したらしい。
「……面白い」
彼は椅子を引いた。
「では見せてもらいましょう。あなた方が、どれだけ“実務”とやらを理解しているのか」
それからの数時間は、ある種の模擬戦だった。
エドガーはわざと細部に噛みつく。転記様式が古い、印影の色が薄い、一覧表の並べ方が監査局標準でない。どれも重要ではあるが、それだけで本質は動かない。
エリシアは譲るところと譲らないところを分けて対応した。形式ミスは認めて直す。だが支払優先順位や、再計算の必要性には数字で対抗する。
ルシアンはほとんど口を挟まない。必要な時だけ「その案件は俺が命じた」「その閲覧は俺の権限だ」と事実を置く。
それがかえって強い後ろ盾になっていた。
夕方近く、エドガーはついに本題へ切り込んだ。
「蜂蜜税の私帳面押収についてですが」
来た。
「そちらの権限外でしょう。王都財務大臣府に関係する可能性のある記録へ、辺境会計室が独断で介入するのは越権です」
「越権ではありません」
エリシアは即答した。
「辺境領内で徴収された税と、そこから発生した未払い・差額について調査しただけです。王都が関係していようと、辺境で発生した不正の確認は辺境の権限内です」
「王都の指示に従っていた場合でも?」
「なおさら、記録が必要です」
エドガーの眼鏡の奥で、目がわずかに冷えた。
この男は自分では汚れていないのだろう。だが、誰のために来たかは明白だ。
彼らは調査しに来たのではなく、調査を畳みに来た。
「質問を変えましょう」
エドガーは指を組んだ。
「あなたは、なぜそこまで熱心なのですか。王都で捨てられた身でしょう。辺境の帳簿がどうなろうと、放っておけばいい」
嫌な聞き方だった。
試すための問いではなく、侮辱の延長にある問い。
会計室が静まる。
ミラが怒ったように口を開きかけたが、エリシアは軽く手で制した。
「放っておいた結果を、前にも見たことがあるからです」
前世の光景が一瞬よぎる。止まった契約。遅れた支払い。折れた人。
だが、それをここで話しても通じない。
「書類の遅れは、その場では小さく見えます。でも積み重なると、人の生活ごと削ります。だから止めないだけです」
エドガーは鼻白んだようだった。もっと感情的に取り乱すかと思っていたのかもしれない。
その時、会計室の扉が開き、ノエルが息を切らせて飛び込んできた。
「西町から報告です! 昨日押収した私帳面と照合したところ、未払いの養蜂家がさらに六世帯!」
「一覧へ追加を」
「はい!」
エリシアが即座に指示を出すと、ノエルはぱっと走って戻っていく。
エドガーはその背を見送り、何かを考えるように沈黙した。
それから不意に、別の話題を出す。
「辺境伯、ひとつ提案があります」
ルシアンが視線だけで促す。
「ローウェル嬢を正式な辺境会計長補佐として任命する気はありますか」
会計室の全員が目を丸くした。
エリシアも一瞬、言葉を失う。
「あなた方の方式は粗い。だが、彼女一人の処理能力は高い。王都に戻すより、ここで責任を負わせた方が効率的でしょう」
褒めているようで、要するに責任ごと押しつけようという提案だ。
けれど悪い話ではない。権限がなければ動かせない案件が増えてきている。
ルシアンはエリシアを見た。
「どうする」
意外にも、彼は勝手に決めなかった。
エリシアは少し考えた。
王都なら、この手の話は大抵“栄誉”の名で無給か、それに近い形で押しつけられる。だが今は交渉できる。
「受けます。ただし条件があります」
エドガーが半笑いになる。
「また条件ですか」
「当然です」
エリシアは指を折りながら言った。
「第一に、肩書ではなく権限を明文化してください。支払再計算、台帳照合、各部署への資料要求、これらを正式業務として認めること。第二に、給金を増額してください。王都からの左遷者でも働いた分は必要です。第三に、私が起案した是正案を、内容を読まずに却下しないこと」
ミラが目を輝かせ、ノエルが吹き出しそうになっている。
サイラスは感心したように腕を組んだ。
ルシアンは即答した。
「分かった」
「早いですね」
思わずエリシアが言うと、彼は平然と返す。
「妥当だからだ」
それだけで、交渉は終わった。
エドガーはさすがに面食らったらしい。
「辺境とは、本当に変わっていますね」
「椅子に座って書類を止めるよりは」
ルシアンが冷ややかに言う。
「ずっと健全だ」
その一言で、査察官はそれ以上余計なことを言えなくなった。
夕刻、正式な任命書が簡易ながら作成された。
“グレイフォード辺境伯領会計長補佐、兼是正記録官”
聞き慣れない肩書だが、要するに今までやっていたことを、堂々とやっていいということだ。
任命書へ自分の名を書きながら、エリシアは少しだけ指を止めた。
自分の署名で、自分の仕事を始める。たったそれだけのことが、こんなに重い。
前世でも今世でも、人の補助として書類を書き続けてきた。
誰かの代筆ではなく、自分の責任で線を引くのは、思っていた以上に怖かった。
「手が震えている」
隣のルシアンが小さく言う。
「少しだけ」
「なら、それが普通だ」
慰めでも励ましでもない。ただ、普通だと告げる声。
その言葉で、不思議と指先の震えが収まった。
任命書を書き終えた直後、会計室の窓を叩くように一羽の伝書鳥が飛び込んできた。
足輪には王都紋章。
エドガーが眉をひそめて鳥を受け取り、紙片を開いた瞬間、顔色が変わる。
「どうしました」
エリシアが問うと、彼は数秒黙り、やがてぎこちなく告げた。
「……第一王子殿下より。押収した蜂蜜税私帳面、および関連資料を、すべて王都へ送付せよとのことです」
会計室が静まり返る。
つまり、向こうも把握したのだ。こちらがどこまで掴んだかを。
しかも“関連資料をすべて”とは、盟約台帳につながるものまで取り上げたいという意味に聞こえる。
ルシアンが立ち上がった。
「拒否する」
「王命に近い指示です!」
とエドガー。
「近いだけだろう」
一歩も引かない声だった。
エリシアは任命書を握りしめる。
肩書を得たその日に、王都が資料の取り上げを要求してきた。
ならば、こちらが握った札は、やはりかなり痛いのだ。
そして痛い札ほど、奪われる前に読み切らなければならない。
読んでいただきありがとうございます。
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