007 月曜の砂袋は誰の腹を満たしたのか
蜂蜜税の帳簿押収から二日後、エリシアは砦の会議机いっぱいに広げられた地図を見下ろしていた。
西町養蜂ギルドから出てきた私帳面には、門税や蜂蜜税だけでなく、“北東災害復旧費”という見慣れた項目まで記されていたからだ。
王都でセドリックが功績として誇っていた堤防修繕。その支出の一部が、なぜか辺境の商会経由で動いている。
「北東は王都近郊のはずです」
エリシアが言うと、サイラスが地図の別の場所を指した。
「こっちの北東だ。グレイフォード領北東部、ルーン川沿いの集落。春先の雪解けで毎年土手が崩れる」
王都近郊ではなく、辺境の北東。
同じ“北東部復旧費”でも、どこの北東か明記しなければいくらでもすり替えられる。
「ずいぶん雑な手口ですね」
「雑でも、誰も現地を見なければ通る」
とルシアン。
たしかにその通りだった。
王都では“北東災害復旧”と聞けば、皆それらしい顔で頷くだけだ。地名まで気にする者は少ない。
「現地へ行きます」
エリシアが言うと、ルシアンはすぐに頷いた。
「俺も行く」
こういう時、この辺境伯は決断が早い。
前世の庁舎なら、現地確認のための決裁文書に判をもらうだけで一週間は飛んだだろう。
ルーン川沿いの集落までは、砦から馬で半日とかからない。
だが道は悪く、春のぬかるみが蹄に絡みついた。川の音が近づくにつれ、空気の湿りも増していく。
集落へ着いてすぐ、エリシアは土手を見て眉をひそめた。
「修繕したとは、とても」
川沿いの土手は崩れたままの箇所が多く、申し訳程度の砂袋が積まれているだけだった。しかもその砂袋は、軽い。つま先で押すと不自然にへこみ、中身の少なさが分かる。
村長だという老人が、深い皺の顔で頭を下げた。
「去年も修繕隊が来ると聞いたんですがな、役人さんが一度見て回っただけで……。『予算が足りない』と言われて終わりでして」
エリシアはその場にしゃがみ、砂袋の口へ触れた。
――見た目だけ整えろ。
――石を詰めると数が足りません。
――なら半分は砂でいい。報告写真は上から撮る。
前世でも聞きたくなかった種類の残響だ。
「写真、はありませんが、やっていることは同じですね」
思わず呟くと、ルシアンが訝しげな目を向けた。
「何でもありません。悪習には時代も世界もないという話です」
土手沿いに並ぶ砂袋を数え、帳面と照らす。
計上は五百袋、実数は三百二十。しかも一袋ごとの内容量がばらばらで、石の入ったものは全体の四分の一程度しかない。
「これでは次の増水で持ちません」
エリシアが断言すると、村長夫人らしい女性が唇を噛んだ。
「でも、直す金なんて」
「あります」
エリシアは即答した。
「少なくとも帳簿の上には、ありました」
村人たちがざわめく。
その視線に含まれるのは、期待よりむしろ諦めだった。何度も約束され、何度も裏切られた目だ。
エリシアはその諦めが痛いほど分かった。
前世でも、申請しても、報告しても、何も変わらないと知りながら書類を出す人の顔を見たことがある。
だからこそ、今回は即座に動かなければならない。
「サイラス様、砦の工兵隊で余剰の人手は」
「半日なら回せる」
「河原の石は現地調達できます。砂袋の口を縫い直す布と縄、荷車四台。今日のうちに」
「今日?」
と村長が目を丸くする。
「今日です。月曜に見つかった不備は、月曜のうちに塞ぐべきです」
我ながら妙な理屈だが、前世で学んだのは先送りの高コストさだった。明日やるは、だいたい一週間後になる。
ルシアンは何も言わず、ただサイラスへ命じた。
「人を出せ」
それで決まった。
午後から集落は修繕でひっくり返った。工兵隊と村人が一緒になって河原の石を運び、空の袋へ詰めて土手へ積む。ミラは砦と集落を往復し、資材表と実数報告を運んだ。ノエルは簡易台帳をつけ、どこへ何袋入れたか逐一記録していく。
「そこ、三袋足りません」
「次の荷車で補います!」
「記録も忘れずに!」
叫びながら走り回るエリシアを見て、村の子どもたちが目を丸くしていた。
王都にいたころ、こんなふうに泥まみれになる書記官など想像もしなかっただろう。
だが、紙の上でしか見ない数字はすぐ腐る。現場で数えて、現場で直して、初めて帳簿は生きる。
夕方近く、土手の一角で木箱が掘り出された。
古びた修繕資材箱だと思われたが、中身は違った。封蝋付きの納品書束、そして王都商会の印が入った支払い指示書。
「これは……」
エリシアが開くと、そこには北東災害復旧費の請負先として、王都のヴァンデル商会の名があった。
下請けに辺境の小商会を噛ませ、実施工は曖昧、差額は中央へ還流。見慣れた構図だ。
だが、その指示書の末尾にある承認欄を見て、エリシアの呼吸が止まる。
「セドリック」
そこには確かに、セドリック・ヴァンデルの署名があった。
補佐官としての承認印つきで。
隣へ来たルシアンが書面を見下ろす。
「知り合いか」
「元婚約者です」
「そうか」
それだけだった。
同情も好奇心もない。ただ事実として受け取っただけの返答。
それが妙にありがたかった。
エリシアは指先に力を込め、紙をめくる。
残響が流れ込む。
――これならバレません。
――村名は曖昧に。支払い先を割れば誰も追えない。
――エリシアに清書させろ。あの女は余計なことを考えない。
奥歯を噛みしめる。
余計なことを考えない。
どれだけ人を見下せば、そう言えるのだろう。
考えていた。ずっと。考えた末に、飲み込んできただけだ。
「ローウェル」
低い声に、我に返る。
ルシアンがこちらを見ていた。
「続けられるか」
問われているのは、仕事のことだけではないと分かった。
過去と向き合う気力があるか。自分を切り捨てた相手の署名を前に、冷静に立っていられるか。
エリシアは息を吐いた。
「はい」
そして静かに答える。
「むしろ、やっと本体に触れた気がします」
ルシアンは頷いた。
それ以上は何も言わず、村人たちへ視線を向ける。
日が傾くころ、応急修繕は一通り終わった。完璧ではない。だが次の増水までにさらに積み増しする目処は立ったし、何より“予算が足りない”が嘘だったと村人たちの前で証明された。
帰り際、村長夫人が布に包んだ焼き菓子を差し出してきた。
粗い麦粉と干し果実だけの素朴な菓子だ。
「大したものじゃありませんが、どうか」
エリシアは一瞬ためらったが、受け取った。
「ありがとうございます」
「……本当に、来てくださったんですね」
その言葉が、胸に残る。
帳簿の数字ではなく、来てくれたことへの礼。
正直、少しだけ泣きそうになった。
前世で死ぬまで欲しかったのは、もしかするとこういう実感だったのかもしれない。
自分の仕事が、誰かの今日にちゃんと届いたという実感。
砦へ戻る道すがら、ルシアンが不意に口を開いた。
「甘いものは好きか」
唐突で、エリシアは目を瞬いた。
「え?」
「さっき菓子を見て、珍しく顔が緩んでいた」
見られていたらしい。
「嫌いではありません」
「そうか」
それだけ言って、彼は前を向いた。
会話は終わったはずなのに、なぜか耳が熱い。何でもないやり取りのはずなのに。
砦が見えてきた頃、城門前で一騎の伝令馬が待っていた。
騎手は王都紋章入りの外套をまとっている。
「グレイフォード辺境伯殿!」
高らかな声が響いた。
「王都監査局より、緊急査察官が明朝着任されます! 会計不備および税務混乱について、直ちに全帳簿の提出を求めるとのこと!」
早い。
こちらが動いたと見るや、向こうも手を打ってきた。
エリシアは焼き菓子の包みを抱えたまま、ゆっくりと息を吐いた。
ようやく帳簿が整い始めたところへ、王都から査察。
しかもタイミングが良すぎる。
敵は焦っている。
それはつまり、こちらの一手が効いている証拠でもあった。




