006 蜂蜜より甘い横領は毒になる
西町の春市は、砦の荒れた空気とは別の熱を持っていた。
石畳の両側に屋台が並び、乾燥肉、蜜酒、羊毛、薬草、木工品がところ狭しと積まれている。まだ寒さの残る辺境では、春市は冬越えの成否を決める大事な市だ。人々の顔は痩せていても、商いの声には力がある。
表向き、ルシアンは春市視察のために来たことになっていた。
実際には税の流れを見に来たのだが、辺境伯が歩けば誰もが背筋を伸ばすので、隠密というにはやや無理がある。
「これ、視察というより威圧では」
小声で言うと、ルシアンは横目だけ寄越した。
「お前が勝手についてきたように見えるだろう」
「むしろ私の方が怪しまれるのでは」
「王都の書記官が市場を見て回るのは珍しいが、違法ではない」
たしかに違法ではない。
だが注目は集まる。
それでも今日はその方がいい。あえて見せることで慌てて動く者がいれば、それ自体が手がかりになる。
養蜂ギルドの屋台は、市の一番奥にあった。
大樽に詰められた蜂蜜、蜜蝋の束、薬用の巣板。甘い香りが濃く漂っていて、周囲の子どもたちが目を輝かせている。
「いい匂い……」
思わずミラが呟いた。
今日は雑務見習いとして同行しているが、目が商品に吸い寄せられていた。
エリシアは屋台の帳面に目を落とす。
売上票には西町養蜂ギルドとあるが、納入元の村名が妙に曖昧だった。「北丘」「上流」「外れ畑」など、正式記録としてはありえない書き方ばかり。
「具体名を避けていますね」
「ベルメの名を隠しているのか」
とルシアン。
「可能性は高いです」
ちょうどその時、恰幅の良い男が揉み手をしながら近づいてきた。
西町養蜂ギルド長のマルフという男で、笑っているのに目だけ笑っていない。
「これは辺境伯様! わざわざ春市へお越しいただけるとは光栄ですなあ」
「帳面を見せろ」
ルシアンが即座に言うと、男の笑みが一瞬だけ揺らいだ。
「ええ、もちろんもちろん。ですが市の最中でして、細かな帳簿は後日でも」
「今だ」
圧が強い。
マルフは渋々、小屋の奥から分厚い売上帳を持ってこさせた。
エリシアは頁を開き、納入欄へ指先を置く。
――ベルメは書くな。
――だが税票が。
――養蜂ギルド名義でまとめろ。村の名があると補助金の照合が来る。
やはりだ。
「ギルド長」
エリシアは穏やかに微笑んだ。
「こちらの“北丘”という納入元、どの村を指すのですか」
「ええと、北の丘の方でして」
「どの村ですか」
「それは、その、時々で違うと言いますか」
「では“上流”は?」
「川の上流ですね」
会話にならない。
周囲の商人たちが面白がるように耳をそばだて始めた。
エリシアは売上帳の下から、昨夜抜き出した別帳簿の写しを一枚取り出した。
「こちらは税庫に保管されていた蜂蜜税の内訳です。村名が正式に記されています。ベルメ村、サンティル村、フォーエン村」
マルフの顔色が変わる。
「ですが現行の基礎台帳では、これらの村名は消えています。不思議ですね。存在しない村から、なぜ税だけが上がるのでしょう」
ざわ、と人垣が動いた。
「そ、それは旧称でして」
「旧称なら変更届が必要です。ありますか」
「今ちょっと手元には」
「では納入契約書は」
「それも今は」
逃げ道が潰れていく。
マルフは助けを求めるように、門税所の方をちらりと見た。視線の先にいたのは、昨日取り調べを受けたはずの下役の一人だ。どうやら網はまだ甘いらしい。
「辺境伯様」
エリシアは小声で言った。
「今、合図を送りました」
ルシアンが軽く顎を引く。サイラスがすぐさま兵を回した。
マルフは慌てて声を張る。
「お待ちください! 誤解です、これは王都との取り決めで――」
言った。
王都との取り決め。
しかも公衆の面前で。
エリシアは追撃する。
「口約束ですか、文書ですか」
「そ、それは」
「王都のどなたと」
ギルド長の額から汗が流れる。
甘い蜂蜜の匂いの中で、その男だけが酸っぱい恐怖の匂いをまとっていた。
「ロヴィス財務大臣府の、印章官を通じて……」
周囲がどよめく。
王都の大臣府の名が出れば、ただの市井のごまかしでは済まない。
「記録を出してください」
エリシアが静かに言うと、マルフはついに膝を折った。
店の奥から運び出された箱の底には、正規帳簿とは別の私帳面があった。そこには正式には消えた村から集めた蜂蜜税、門税差額、王都宛の送金額まで細かく記されている。
差引きの一部は“辺境維持特別費”の名目で消えていたが、その使途欄は空白だった。
「毒ですね」
エリシアは帳面を閉じた。
「蜂蜜は本来、人を養う甘さです。でも帳簿に混ぜれば、都合のいい人間だけを太らせる毒になる」
その言葉に、市場の空気が変わった。
それまで様子見をしていた商人たちが、一人、また一人と声を上げ始める。
「うちの荷車も通行税がおかしかった!」
「冬の備蓄用に納めた蜜蝋代が戻ってねえ!」
「ベルメの蜂蜜は去年も売られてたぞ、村ごと消えたなんて聞いてねえ!」
不満は、積もっていたのだ。
誰もが確証を持てず飲み込んでいただけで。
ルシアンは騒ぎを見渡し、きっぱりと言った。
「西町養蜂ギルドの帳簿を押収する。関係者は全員、砦で事情を聞く。正規納入者には再計算のうえ支払いを行う」
「支払いは、いつ」
と痩せた養蜂家の女が震える声で訊いた。
「最優先で」
エリシアが先に答えた。
「正しい納入記録を再確認し、未払い分を一覧化します。名前を消された村の分も含めて」
その女は、今にも泣きそうな顔で何度も頷いた。
帰り道、ミラが小さな瓶を大事そうに抱えていた。
養蜂家の一人が、お礼にと少しだけ持たせてくれたのだ。
「後でパンにつけて食べようね!」
「仕事が終わってからです」
「ええー」
頬を膨らませるミラを見て、エリシアは少し笑う。
すると隣を歩くルシアンがぽつりと言った。
「笑うんだな」
「失礼ですね。笑います」
「王都にいた時より、今の方が自然だ」
思いがけない言葉だった。
エリシアは一瞬、返答に詰まる。
王都での自分は、たしかにいつも表情を押し殺していた。機嫌よく見えれば雑務が増え、疲れを見せれば無能と笑われる。何も出さない顔が、一番摩耗しにくかったから。
「こちらでは、仕事が前に進みますので」
そう返すと、ルシアンは「それだけか」とでも言いたげにこちらを見たが、追及はしなかった。
砦へ戻る手前、ルシアンが歩みを緩める。
「ベルメへ人を出す」
「村がまだあると?」
「あるなら見つける。ないなら、消えた経緯を暴く」
エリシアは頷いた。
その時、市場の方から一台の荷車が勢いよく飛び出してきた。積み荷は樽。御者は顔を伏せ、門へ向かって鞭を打っている。
「止めろ!」
サイラスが叫ぶより早く、ミラが脇道へ走った。
小柄な身体で柵の隙間を抜け、近道から門前へ回り込む。荷車が門を抜けようとした瞬間、彼女が投げた縄が車輪に絡み、荷車が大きく傾いた。
樽が割れ、中から出てきたのは蜂蜜ではなく封蝋付きの書簡束だった。
サイラスの兵が御者を取り押さえる。
エリシアが一通を拾い上げると、封蝋には見覚えのある紋章が刻まれていた。
王都財務大臣府。
しかも宛名は、第一王子アルノルト付き書記官。
市場の甘い匂いが、一瞬で鉄の味に変わった気がした。
不正は辺境だけで完結していない。
むしろ、辺境は都合よく吸われる末端にすぎない。
ならば、こちらが帳簿を正しく起こせば起こすほど、王都の誰かが困る。
ようやく、敵の輪郭が見え始めた。




