005 赤鍵の庫には消えた村が眠っていた
税庫の最奥にある扉は、想像以上に重かった。
赤鍵を回した途端、錆びた蝶番が鈍く鳴る。押し開けた向こうには、ひんやりと乾いた空気が満ちていた。黴臭さはほとんどない。代わりに、古い革と油紙の匂いがする。
「保存は悪くないですね」
思わず呟くと、ルシアンが短く答えた。
「ここだけは先代たちも手を抜かなかった」
庫の中には棚が整然と並び、赤い封をされた革筒や、真鍮の留め具がついた台帳が年代順に収められていた。会計室とは別世界だ。隠された真実ほど丁寧に保存されるというのは、皮肉としか言いようがない。
入口脇に小さな机が一つあり、その前に白髪の老人が座っていた。
エリシアは一瞬ぎょっとした。気配が薄すぎて、人形かと思ったのだ。
「オズワルド」
ルシアンが呼ぶと、老人はゆっくり顔を上げた。深い皺だらけの顔だが、目だけは澄んでいる。
「辺境伯様」
それから老人はエリシアを見た。
「……新しい書記殿か。ようやく紙を読める人間が来たらしい」
歓迎の言葉としては随分ひねくれていたが、嫌味ではなさそうだった。
「オズワルドは税庫と古文書庫の管理人だ」
ルシアンが簡潔に紹介する。
「三十年ここにいます」
「五十年です」
老人は訂正した。
「三十年など、ついこの前でしょう」
なるほど。会計室にいれば頼もしい類いの人材だ。
オズワルドは机の引き出しから薄手の手袋を出し、エリシアへ差し出した。
「この庫の紙は古い。丁寧に扱いなさい。壊れたら二度と戻らん」
「承知しました」
エリシアは手袋をはめ、最も新しい基礎台帳から開いた。
各村の戸数、耕地面積、徴税見込み、兵役免除の条件、災害時の備蓄支給量。辺境の骨組みそのものだ。
数冊めくったところで違和感に気づく。前年台帳と比べ、村の数が減っている。
「ここ」
指先で示す。
「前年は十二村。今期台帳は九村です」
「廃村になったのでは」
とサイラスが言う。
「ならば廃村処理の記録が必要です。住民移送、家屋撤去、徴税区分変更、何かしら残るはずです」
エリシアは消えた村名のあった頁へ手を触れた。
――削れ。
――だが、この村は今年も蜂蜜税を納めています。
――本帳からは外せ。補助金だけ別で回せばいい。
――盟約台帳は。
――あれは閉じておけ。誰も読まん。
喉の奥がひやりとする。
「蜂蜜税、という言葉が出ました」
ルシアンの視線が鋭くなる。
「西町の養蜂ギルドか」
「それだけではありません。“盟約台帳”という別の台帳も存在します」
オズワルドが初めてはっきり反応した。乾いた指が膝の上でわずかに動く。
「知っているのですか」
問うと、老人は数秒黙り、やがて立ち上がった。
背は曲がっているのに、歩き方に迷いがない。庫の最奥まで進み、最下段の箱を引き出す。その中から真鍮の金具がついた分厚い帳面を抱え、机の上へ置いた。
「盟約台帳です」
革表紙には、擦り切れながらも古い紋章が残っていた。王冠、剣、秤、そして麦穂。建国時の印だろうか。
「これは辺境だけのものではない。王家と辺境伯家、それに各村が交わした保護と徴税の記録だ。土地を耕し、税を納め、兵糧や労務を差し出す代わりに、王は道と砦と冬の備蓄を守る。紙の上の約束だが、この国では約束に魔力が宿る」
エリシアは思わず表紙へ触れた。
どくん、と鼓動のようなものが指先を打つ。
――名を記し、守りを交わせ。
――税は奪うためではない。冬を分け合うためにある。
――記録から外れた民は、守りからも外れる。
古い、古い声だった。
怒号ではない。誓いの声だ。
「……本当に、残っている」
前世にはなかった感覚だったが、理解はできた。帳簿がただの管理表ではなく、世界の仕組みに食い込んでいる。だから改竄は不正であると同時に、保護そのものを削る行為になる。
「最近、結界が薄くなったという話を聞いたことは」
エリシアが訊くと、サイラスが顔をしかめた。
「北の峠で霧が増えたという噂はある。魔物が境を越えやすくなったとも」
「もし村が記録から消されれば」
オズワルドが低く言う。
「守りも弱る」
庫の中がしんと静まる。
ルシアンは盟約台帳の頁を一枚めくった。整った筆跡で、村名と戸主名が並んでいる。消えた三村の名も、そこには確かにあった。
「ローウェル」
「はい」
「今の会計台帳から消えた三村を、口に出して読め」
エリシアは確認し、読み上げた。
「ベルメ、サンティル、フォーエン」
その瞬間、庫の空気がわずかに震えた。
エリシアだけでなく、サイラスもミラも顔を上げる。棚の奥で、古い封筒がかさりと鳴った。
「……今の」
ミラが囁く。
ルシアンは返事をしなかった。
だが、否定もしない。
三村は消されている。帳簿から。税から。たぶん、補助金からも。そして結界からも。
「この三村は実在しますか」
オズワルドが首を振る。
「かつては。今も住んでいるかは分からん。王都へ出す年次報告から名が落ちてから、誰もまともに見に行かなくなった」
つまり、消したあとに放置したのだ。税だけ別帳簿で吸い上げ、保護と支出の責任は消す。
エリシアは胃のあたりに冷たいものが落ちるのを感じた。
これが王都で見た未払いとつながっているなら、横領額はかなり大きい。しかも年単位だ。
さらに調べると、死んだはずの役人に支給され続けている俸給、存在しない荷運び人への手当、廃道になった街道の修繕費が毎年計上されているのも見つかった。
「幽霊ばかりですね」
エリシアが淡々と言うと、オズワルドが鼻を鳴らす。
「幽霊は金を使わん。使うのは生きた人間だ」
その通りだ。
夜半まで作業を続け、三村に関する資料、蜂蜜税の別帳簿、幽霊俸給の一覧を抜き出すころには、エリシアの目も乾いていた。
だが疲労より先に、頭が回る。
点が線になり始めている時は、眠る方が難しい。
「蜂蜜税から当たりましょう」
彼女は言った。
「消えた三村のうち、ベルメは養蜂で知られていたようです。現行台帳から名が消えたのに、別帳簿では税だけ残っている。つまり、何かの名目で徴収は続いている」
「西町のギルドが窓口だな」
とルシアン。
「はい。市場の流通を見れば、何か掴めるはずです」
ルシアンはしばらく考え、やがて盟約台帳を閉じた。
「明朝、西町へ行く。表向きは春市の視察だ」
サイラスが頷き、すぐ手配へ向かう。ミラは「私も行く!」と元気よく言ったが、オズワルドに「まず字を覚えなさい」とたしなめられていた。
庫を出る前、エリシアはもう一度だけ盟約台帳に触れた。
――守れ。
――名を消すな。
耳ではなく、心の奥で聞いたような声だった。
王都では、帳簿は誰かの評価や出世のために使われた。
けれど本来、記録とは守るためにある。
そう思った時、前世で死ぬまで抱えていた書類の重さが、初めて少し違う意味を持った気がした。
外へ出ると、夜風はまだ冷たかった。
ルシアンが先を歩き、石階段の途中で一度だけ振り返る。
「ローウェル」
「はい」
「今夜見たことを、恐れるか」
エリシアは考える。
恐ろしい。もちろん恐ろしい。王都の中枢まで絡む不正かもしれないし、自分はその渦中に足を踏み入れた。
けれど、知ってしまった以上、見なかったことにもできない。
「恐れます」
正直に答えると、ルシアンはなぜか少しだけ安堵したような顔をした。
「ならいい」
「いい、のですか」
「恐れない人間より信用できる」
そう言って彼はまた前を向く。
背の高い背中を見ながら、エリシアは小さく息を吐いた。
この辺境伯は、思っていたよりずっと厄介で、ずっとまっとうだ。
だからこそ、たぶん一緒に戦える。




