010 昨日を四角くするのは帳簿ではなく人の都合だ
白鐘修道院へ発つ前に、エリシアには一つだけ片づけなければならない仕事があった。
昨夜の火事で散った紙片の復元である。
会計室の長机いっぱいに焦げ跡のついた紙を並べ、ノエルとミラが大きさごとに分類していく。エドガーは最初こそ「これに意味が?」と渋い顔をしたが、エリシアが何も言わず紙を一片ずつ並べ始めると、結局向かいに座って手伝い始めた。
「角を合わせてください」
「監査官にこんな作業をさせる人は初めてですよ」
「光栄です」
嫌味の応酬に聞こえるが、手は止まらない。
焦げた紙は、元の形よりも四角くなりたがる。
燃えた縁が丸く縮れ、残った部分だけが妙に几帳面に見えるからだ。けれど四角く見えるからといって、もとの記録まで整っていたとは限らない。
人の都合で削られた帳簿も同じだ。
見た目だけは整い、肝心な中身が抜けている。
「ここ、繋がります」
ノエルが差し出した紙片を、エリシアは別の一枚へ重ねた。
そこに残っていたのは、蜂蜜税の送金先欄と、白鐘修道院に保管されている“北境盟約補遺二”という文言だった。
「補遺」
エドガーが眉を寄せる。
「盟約台帳の本文とは別に、追加条項があるのですね」
「そう考えるのが自然です」
「王都中央文書館の目録に、そこまで細かい記載はなかった」
つまり、誰かが意図的に目録からも薄くしたのだろう。
さらに紙片を繋ぐと、もう一つ厄介な事実が見えてきた。
送金先の一つに“王都東区慈恵会”という名がある。慈善事業を装って資金を通す、前世でもよく見た洗浄口だ。
「綺麗な箱に入れ替えて、昨日の金だと分かりにくくする」
エリシアが呟くと、エドガーが低く問う。
「前にも見たことがあるような言い方ですね」
「あります。似たようなことを」
それ以上は言わない。
けれど彼は追及しなかった。
昼前、昨夜捕らえた隠密の取り調べ結果が入る。男は結局口を割らなかったが、所持品から王都南門の通行札と、白鐘修道院近辺の簡易地図が見つかった。
「向こうも今日には動きますね」
サイラスが言う。
「先を越されるかもしれません」
ルシアンは短く答えた。
「なら越される前に着く」
単純だが正しい。
出立の準備をしながら、エリシアはエドガーへ向き直った。
「査察官殿はどうなさいますか」
彼はしばし沈黙し、やがて眼鏡を外して疲れた目を押さえた。
「……本来なら、私はあなた方を止めるべき立場です。押収帳簿を王都へ送れ、辺境は余計なことをするなと、そう書かれています」
「では、止めますか」
エドガーは苦く笑った。
「止めるなら、昨夜の火事の時点で資料を持ち去っていました」
意外と、まともな人間なのかもしれない。
あるいは、まともであろうとする余地がまだ残っているだけか。
「私は王都へ戻ります」
彼は続けた。
「そして“辺境会計は混乱しているが、再計算作業は査察対象として妥当。追加資料確認のため、正式結論は保留”という、ひどく曖昧な報告を出す」
「時間稼ぎを?」
「監査局の技術です」
少しだけ肩をすくめる仕草に、エリシアは初めて小さく笑った。
なるほど。この男もこの男で、王都の中で生き延びる術を持っている。
「助かります」
「貸しです」
「高くつきそうですね」
「そうでもない。いつか、本当に監査局を作り直す日が来たら、その時に働いてください」
思わぬ返答に、エリシアは瞬きをした。
「考えておきます」
それはすぐの約束ではない。だが、即座に否定もしなかった。
前世では役所に絶望して終わった。今世では、もし正しい記録が守れる場所を作れるなら、少しは違うのかもしれない。
出立は午後になった。
同行はルシアン、サイラス、エリシア、ミラ、そして護衛兵三名。ノエルとオズワルドは砦に残り、会計室と税庫を守る。
馬へ荷を積みながら、オズワルドがエリシアへ小さな包みを渡した。
「白鐘の古い目録写しです。全部ではないが、あれば助かる」
包みの中には、細い字で書かれた一覧が入っていた。修道院保管文書の大まかな分類だけだが、“北境盟約補遺二”の文字がたしかにある。
「ありがとうございます」
「礼は、持ち帰ってからでいい」
老人はいつも通りひねくれた口調だったが、目だけは真っ直ぐだった。
砦を出る直前、ルシアンが馬上から会計室を振り返る。
窓は仮板で塞がれ、前庭の長机は片づけられている。それでも、昨日までそこに列ができていた気配は残っていた。
「守れるか」
彼が訊いたのは会計室に残るノエルへ向けてだ。
「もちろんです」
ノエルは包帯の巻かれた腕で敬礼した。
ルシアンが頷き、出発の合図を出す。
馬が進み始めた時、エリシアはふと後ろを見た。
辺境の砦は灰色で、寒くて、足りないものだらけだ。それでも今の彼女にとっては、王都よりずっと帰る場所に近い気がした。
白鐘修道院までの道は山沿いに延びている。
風は冷たく、谷底からは水音が響く。ミラは途中で何度も「まだですか」と聞き、サイラスにたしなめられていた。
夕方近く、峠の向こうに白い鐘楼が見えた。
修道院の名の通り、雪をかぶったように白い石造りの建物だ。だが、その門前にはすでに轍が刻まれていた。
新しい轍。
しかも複数。
「先客あり、ですね」
エリシアが低く言うと、ルシアンの目が細くなった。
「急ぐぞ」
向こうも来ている。
ならば、白鐘で待っているのはただの古文書ではない。奪い合いになるだけの価値が、たしかにそこにある。




