011 歌の端をかじる石造修道院
白鐘修道院の門は閉ざされていた。
ルシアンが呼び鈴を引くと、ほどなくして小窓が開き、年配の修道女が鋭い目を覗かせる。
「どなたです」
「グレイフォード辺境伯ルシアン。急ぎ確認したい古文書がある」
修道女はエリシアたちの後ろに並ぶ護衛を見て、さらに目を細めた。
「さきほども“王都からの文書確認”を名乗る方々が来られました」
やはり先客だ。
「今どこに」
「院長様と文書庫に」
ルシアンはそれ以上言葉を費やさなかった。扉が開くや否や中へ踏み込み、エリシアたちも続く。
中庭は静かで、風の音と遠い鐘の揺れだけが聞こえる。その静けさの中に、場違いな足音と焦りの気配が混じっていた。
文書庫は礼拝堂の脇にあった。
重い扉を押し開けると、中では二人の男が棚を漁っていた。王都式の外套。昨夜の隠密ほど露骨ではないが、どう見ても敬虔な文書確認者ではない。
「動くな」
サイラスの剣が抜かれる。
男たちは一瞬固まったが、すぐに紙束を抱えて窓へ走った。片方は護衛兵に取り押さえられたものの、もう一人は棚を倒して逃げる。
「エリシア!」
ルシアンの声に頷き、彼女は倒れかけた棚を支えた。古い写本が雪崩のように落ちる。紙の角が腕に刺さり、痛みが走るが離せない。
その棚の隙間から、一冊だけ異様に重い革装本が滑り落ちた。
表紙には薄く、北境盟約補遺二と刻まれている。
「ありました!」
叫ぶと同時に、文書庫の奥から静かな声がした。
「乱暴な来訪者が続く日ですね」
振り返れば、白い修道服を着た老女が立っていた。院長だろう。細い身体に似合わず、立ち姿は揺るがない。
「わたくしは院長アグネス。まずは棚を元へ戻していただけますか」
場を見て最初の一言がそれなのか、とミラが目を丸くする。
だがアグネス院長の言うことは正しかった。文書庫にとって一番大事なのは、戦いではなく、紙を守ることなのだ。
逃げ損ねた男たちは縛り上げられ、アグネス院長の許可のもと、エリシアたちは文書閲覧室へ通された。
補遺二は、盟約台帳の本文に追加された条項集だった。
その内容を読み進めるうち、エリシアは何度も息を止めた。
境界集落が災害や戦で疲弊した場合、中央は三年を上限に徴税を軽減し、代わりに備蓄・治水・薬資を優先配給する。
ただしその措置を受ける村は、盟約台帳と各地保管写本の両方に名が残っていなければならない。
片方からでも削除された場合、保護対象から外れ、結界優先度も下がる。
「なんて陰湿な」
エリシアは思わず漏らした。
「書類一つで、人を守る優先順位まで変わるのですね」
アグネス院長が頷く。
「この国は、建国の時から記録に魔力を絡めてきました。約束を残すために。けれど残す力があるなら、消す力もある」
ルシアンは別の頁を見て顔を険しくした。
「薬資の優先配給」
その低い声に、エリシアは彼を見る。
「何か」
「母が死んだ年、北境で熱病が流行った」
彼は頁から目を離さないまま言った。
「王都の記録では、グレイフォード領への薬材配給は“予定通り”だった。だが実際には半分も届かなかった」
静かな口調だったが、指先にだけ力が入っている。
「その年、削られた村名があったのかもしれません」
エリシアが言うと、ルシアンは短く頷いた。
「母は村を回って配給を分けた。最後は自分が薬を使わずに死んだ」
言葉は短いのに、重かった。
サイラスもミラも黙り込む。
ルシアンが王都を嫌う理由の一端を、エリシアはようやく具体的に理解した。
ただ冷たいのではない。誰かの都合で、守られるはずの人間が切り捨てられるのを見てきたのだ。
補遺二の末尾には、さらに重要な一文があった。
“消名の異議は、保管写本の現認をもって再審に付す。再審には辺境伯、王家名代、記録官、当該村の代表者の立会いを要す”
「再審ができる」
エリシアが呟く。
「白鐘に写本が残っている限り、消された村を復帰させる法的根拠があります」
「法的根拠だけならな」
とルシアン。
「王都が応じるとは限りません」
「でも、殴りつけるための紙にはなります」
珍しく強い言葉が出たのは、自分でも少し驚いた。
ミラが「今の好きです」と小声で言い、サイラスが咳払いをした。
その時、外から鐘が鳴った。
一度、二度、三度。祈りの鐘ではなく、警戒の打鐘だ。
修道女が駆け込んでくる。
「院長様! 裏門に武装した男たちが!」
アグネス院長は眉一つ動かさなかった。
「やはり来ましたか」
ルシアンが即座に立ち上がる。
「補遺二を持って出る。サイラス、護衛を二手に。ローウェルは俺のそばを離れるな」
「了解!」
文書庫の裏手には、古い石橋へ続く細道があった。白鐘の名の由来である鐘楼はその先、崖際に建っているらしい。
院長の案内でそこへ向かう最中、矢が一本、石畳へ突き立った。
「伏せろ!」
護衛兵が前へ出る。修道院の静けさは一瞬で破られ、代わりに足音と怒号が満ちた。
エリシアは胸に補遺二を抱え、必死で走る。背後で金属音が響き、白い壁に泥が跳ねる。
石橋を渡りきる寸前、追手の一人が飛びかかってきた。反射的に身を引いたが、足がもつれる。
その腰を、強い腕が引き寄せた。
「前を見ろ」
ルシアンだった。
低い声と同時に剣が閃き、追手の刃を弾く。
心臓が跳ねる。
恐怖でか、別の何かでか、もうよく分からない。
鐘楼へ辿り着くと、サイラスが内側から扉を閉めた。外ではまだ足音がする。だが石造りの塔は簡単には破られないだろう。
狭い階段室に荒い呼吸が満ちる。
エリシアは補遺二を抱えたまま、その場へ座り込みそうになった。
「大丈夫か」
ルシアンが片膝をつく。
「だ、大丈夫です」
嘘だった。足が震えている。
それでも補遺二だけは離さなかった。
「なら休め。夜明けまでここで持ちこたえる」
塔の上では古い鐘が風に揺れ、かすかに鳴っていた。
まるで歌い損ねた歌の端を、石が噛んでいるような、不思議な音だった。
そしてその夜、狭い鐘楼の中で、二人は互いにもう少し深いところまで知ることになる。




