012 傘の裏で転ぶ時計塔の告白
鐘楼の中は、思っていた以上に寒かった。
石壁が昼の熱をほとんど残しておらず、隙間風が細く吹き抜ける。下階では護衛兵とサイラスが交代で見張りに立ち、上階の鐘の近くにはエリシアとルシアンがいた。ミラは途中で眠ってしまい、外套にくるまって丸くなっている。
夜半を過ぎた頃、雨が降り始めた。
傘の裏を爪で弾くような細かい雨音が、塔の屋根を叩く。鐘楼なのに、音の響き方はどこか時計塔に似ていた。ひとつひとつの音が時間を刻むようで、眠れそうにない。
「眠れませんか」
エリシアが囁くと、ルシアンは壁にもたれたまま目を閉じていた。
「お前もだろう」
「ばれていますか」
「呼吸で分かる」
前世で終電後の事務室にいた時も、こんな雨音を聞いた気がする。あの時は書類の締切だけが怖かった。今はもっと具体的だ。追手、証拠、王都。失えば人が守られなくなる紙を抱えている。
「怖かったですか」
自分でも不思議なくらい素直に訊けた。
ルシアンはしばらく黙っていたが、やがて答える。
「怖いに決まっている」
それは意外な答えだった。
もっと別の言葉が返ると思っていた。訓練で慣れたとか、問題ないとか。
「戦場は毎回怖い。砦が落ちるかもしれないのも、部下が死ぬのも、間に合わないかもしれないのも」
静かな声が、雨音に混ざる。
「ただ、怖くない顔をしている方が都合がいいだけだ」
エリシアは思わず小さく笑った。
「似ていますね」
「何が」
「私も、平気そうな顔をしている方が都合がよかったので」
王都では感情を出さない方が楽だった。怒っても嗤われ、泣けば弱いと言われる。だったら最初から、何もない顔をするしかない。
「でも、本当はずっと嫌でした」
声が、思ったより掠れた。
「自分の書いたものを、別の誰かの功績として差し出すのも。分かっていて黙るのも。あの人たちが現場を知らないまま、数字だけ綺麗にして満足するのも」
セドリックの署名、第一王子の無関心、王都の大広間の笑い。
全部もう終わったはずなのに、まだ棘のように残っている。
「なのに結局、私は王都で戦えませんでした」
「戦っていただろう」
即座に返ってきた言葉に、エリシアは目を瞬いた。
「え?」
「少なくとも、お前が拾った請求書がなければ、今もここの兵糧は盗まれ続けていた」
ルシアンは目を開き、こちらを見る。
暗がりの中でも、その目だけは妙にはっきりしていた。
「大広間で全部を覆せなかったとしても、そこで終わらなかった。十分だ」
胸の奥が少し熱くなる。
慰められたのとは違う。結果だけを見て、過不足なく評価された。そんな経験がほとんどなかったからだ。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「では、私からも一つ」
エリシアは外套の襟を寄せながら言う。
「怖いなら怖いと言っていいと思います」
ルシアンがわずかに眉を上げる。
「私には?」
「はい」
「お前は変わっている」
「よく言われます」
雨脚が少し強くなる。鐘が風に揺れ、低く鳴った。
しばらくして、ルシアンがふと口を開く。
「母は、俺に帳簿を読めと言った」
唐突なようで、たぶん続きだった。
「剣を持てる人間はいくらでもいる。だが、どこに何が足りないか、何が誰に届いていないかを知る人間は少ない。領主はそれを読む役目だと」
「素敵な方だったのですね」
「ああ。だから、薬が届かなかった時、王都を許せなかった」
許せなかった。今でも。
その感情を隠さない声だった。
エリシアは胸に抱えた補遺二を見下ろす。
紙一枚で、誰かの母が死に、誰かの冬が奪われる。
だったら、その紙一枚で守り返すしかない。
「白鐘から戻ったら」
エリシアは言った。
「消えた村を全部、帳簿へ戻しましょう」
「全部?」
「はい。たとえ面倒でも。王都が嫌がっても。名前を消されたままにしておくのは、もう嫌です」
ルシアンはしばらく何も言わなかった。
やがて、珍しく柔らかな声で答える。
「頼もしいな」
その二文字で、なぜか息が詰まる。
前世でも今世でも、便利だとか手際がいいだとかは言われた。だが、頼もしいと言われたことは、ほとんどなかった気がする。
「……困ります」
ぽつりと漏れる。
「何が」
「そういうことを、そんな声で言われると」
自分で言って、恥ずかしさが一気に押し寄せた。
何を言っているのだろう。こんな緊迫した状況で。
けれどルシアンは笑わなかった。
ただほんの少しだけ、目元を和らげた。
「気をつけよう」
「できれば」
「努力はする」
それはつまり、やめる気はないのだろう。
下階からサイラスの声が上がったのは、その直後だった。
「辺境伯様! 伝令です!」
こんな夜更けに。
二人で階下へ降りると、雨に濡れた修道兵が息を切らしていた。手には封蝋付きの急報。グレイフォード家の印と、王都宮廷の印が重ねて押されている。
ルシアンが封を切る。読み終えた彼の顔から、わずかに表情が抜けた。
「何が」
問うと、彼は紙をエリシアへ渡した。
そこには簡潔に、しかし十分すぎる威圧をもって記されていた。
“グレイフォード辺境伯は速やかに王都へ出頭せよ。北境会計の混乱について説明を求める。同行者は副官一名まで。会計長補佐エリシア・ローウェルの王都立入は当面これを禁ず”
第一王子アルノルトの名である。
「禁ず、ですって」
ミラが噛みつくように言った。
「露骨ですね」
とサイラス。
露骨だ。こちらを分断する気なのが丸見えだ。
ルシアンだけを王都へ呼び、エリシアを辺境に留める。あるいはその逆に、彼不在の辺境から資料を奪うつもりかもしれない。
「どうしますか」
サイラスが問う。
ルシアンは即答しなかった。
雨音だけが塔に響く。
エリシアは急報を握りしめた。
ようやく辿り着いた補遺二。消えた村を戻す再審条項。これらを持ったまま王都が動いた。
ならば次は、辺境の帳簿戦では終わらない。
王都そのものを相手にする段階へ入ったのだ。
夜明け前の鐘が、遠くで鳴った。
告白の余韻も、わずかな温度も、その音が一度切り分けていく。
仕事も感情も、たぶんもう、切り離してはいられない。




