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婚約破棄されたので、不正会計を暴きます ~地味な書記魔法の私ですが、辺境伯領を立て直したら冷徹辺境伯がなぜか離してくれません~  作者: 小竹X


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013 辺境伯不在の会計室

白鐘修道院から砦へ戻った日の夕方、空は鉛色だった。


雨に洗われた石壁は暗く沈み、会計室の窓に打ちつけた仮板だけが妙に新しい色をしている。エリシアは補遺二を胸に抱えたまま、前庭へ立ち尽くしていた。


王都からの命令は待ってくれない。

ルシアンは出頭しなければならない。応じなければ“辺境伯の反抗”という別の罪目を与えられる。


分かっている。

分かっているのに、割り切れない。


「そんな顔をするな」


荷造りを終えたルシアンが近づいてきた。

いつもの軍装に外套を重ね、腰には剣。出立の支度そのものだが、白鐘帰りの疲れが薄く影になっている。


「そんな顔とは」


エリシアがとぼけると、彼は一拍置いて言った。


「置いていかれる顔だ」


否定しづらい表現を選ぶのが上手い人だ、とエリシアは思う。


「置いていかれるのは事実です」


「すぐ戻る」


簡単に言ってくれる。

だが王都は、ルシアンにとってもエリシアにとっても、そんなに単純な場所ではない。戻るつもりで行った人間を、戻らせない仕組みがいくらでもある。


前庭の端では、サイラスが馬と書類箱の最終確認をしていた。同行は副官一名までという命令に従い、護衛兵は最小限。明らかに心細い人数だが、増やせばそれを口実に別件を作られる。


「補遺二は持っていきません」


ルシアンが言う。

「写しを二部作る。一部は俺が持つ。原本は砦に残す」


「奪われる可能性があるからですか」


「ああ。王都で奪われるより、辺境で守る方がまだましだ」


エリシアは頷いた。

理屈は正しい。だがそれは同時に、砦へ残る自分が守る側になるということでもある。


ルシアンは懐から小さな封筒を取り出した。

厚手の封蝋がされ、グレイフォード家の簡易印が押されている。


「開けてみろ」


中には短い任命状が入っていた。

“ルシアン・グレイフォード不在中、エリシア・ローウェルを臨時民政記録官とし、会計・徴税・備蓄・補給に関する記録要求と暫定是正命令を許可する”


エリシアは一度読み、もう一度読んだ。


「……これ、大きすぎませんか」


「足りないくらいだ」


「私はただの会計長補佐です」


「今は違う」


そう言って、彼はさらに小さな銀の印章を差し出した。指輪ではなく、掌に収まる平たい印。裏面に辺境伯家の簡易紋。


「正式印章ではない。だが、砦と町の役人には通じる」


「預けるのですか」


「預ける」


軽いものではない。

銀そのものの重さより、その先についてくる責任の方がずっと重い。

エリシアは少しだけ躊躇い、それでも受け取った。


「返してくださいよ」


気づけばそんなことを言っていた。


ルシアンがわずかに目を細める。


「戻ったらな」


戻る前提の返事に、胸の奥が少しだけ軽くなる。

悔しいが、単純だ。


出立前の最後の打ち合わせでは、オズワルドとノエル、ミラ、税所の古参役人、それに西町の代表商人まで呼ばれた。前庭の長机に補遺二の写しと簡易地図を広げ、エリシアがやるべきことを整理する。


一、消えた三村に関する現行徴税・補助・納入記録の洗い直し。

二、王都経由の送金路を示す別帳簿の確保。

三、再審に必要な当該村代表の探索。

四、砦と町の未払い案件の継続処理。


「つまり寝る暇はないってことですね!」


ミラが元気よくまとめ、オズワルドが杖で床を突いた。


「寝なさい。倒れたら何も進まん」


まったくその通りだった。

前世の自分はそこを間違えた。寝なければ仕事が進むと思い、結局、死ぬまで働いたのだから笑えない。


ルシアンが出立した後、砦は妙に静かになった。

ただ彼が一人いなくなっただけなのに、空気の支柱を一本抜かれたような感じがする。


「寂しいですか」


書類を運びながら、ノエルが何気なく聞いた。


「仕事量が増えたので、感傷に浸る暇はありません」


即答すると、ノエルは素直に「ですよね」と頷いた。


そこで終わってくれればよかったのに、ミラが横から口を挟む。


「でもちょっと寂しそう!」


「ミラ」

「だってだって、辺境伯様が出る前、二人とも顔が変だったもん!」


「どんな顔ですか」

「大事な帳簿を別の倉に移す時の顔!」


例えが絶妙に仕事寄りで、叱る気力が少し削がれた。


その日の夜、エリシアは会計室で一人、補遺二の写しと押収済み帳簿を突き合わせていた。

白鐘から持ち帰った目録写しには、文書束の結束に“黄糸”という注記がある。目録の備考欄に一度だけ出るだけの、些細な単語。


「黄色い糸……」


ふと、蜂蜜税の私帳面を綴じていた紐の色を思い出す。

くすんだ黄。目立たないが、普通の麻紐とは撚りが違っていた。


その時、窓を軽く叩く音がした。

警戒して開けると、そこにいたのは修道院からの連絡係ではなく、王都行き前に別れたはずのエドガーだった。

正確には本人ではない。彼の使いだという早馬の少年が、短い封書を差し出したのである。


封を切る。


“監査局保管資料の一部に、黄糸綴じの臨時台帳あり。通常の会計紐と規格が異なる。王都東区の縫製組合経由。こちらでは追いにくい。辺境側で同規格を探られたし”


簡潔で、嫌になるほど仕事の文面だった。

だが十分だ。


「ノエル、明日、西町の縫製工房を全部当たります」


「はい?」


「黄色い糸を探します。規格から」


「は、はい!」


ノエルが慌ててメモを取る。

ミラはきょとんとしたあと、すぐに目を輝かせた。


「糸を追えば、帳簿の親玉が見つかるんですね!」


「そこまで簡単ではありません」


と言いながら、エリシアも半分は同じことを考えていた。

どんな巨悪も、たいていは地味な資材の調達で足がつく。紙、封蝋、印章、糸。前世でもそうだった。


黄色い糸で綴じられた台帳。

それは王都と辺境を繋ぐ、新しい線かもしれない。


ルシアンのいない砦で、エリシアは銀の印章を机へ置いた。

小さな銀は灯りを受けて静かに光る。


返してもらうためにも、止まるわけにはいかない。

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