035 初雪前の公開棚卸し
北境に最初の雪の匂いが降りてきた頃、公開記録室では“初雪前の公開棚卸し”が始まった。
名前の通り、冬に入る前の備蓄を住民立会いで数える行事である。
王都の役人なら眉をしかめそうな催しだが、エリシアに言わせれば、むしろこれをやらずに冬へ入る方が正気ではない。
前庭の長机には今日だけ特別に品目表が並ぶ。
穀粉、塩肉、乾燥豆、薬草束、包帯、薪券、橋補修用釘、ベルメ携行焼き。住民代表、監視所代表、村代表、工兵、遺族会、そして希望者が立ち会い、倉から出した数をその場で確認していく。
「本当に全部見せるのかい」
王都から来た若い会計官が呆れたように言った。
研修扱いで派遣されてきたらしいが、初日から顔に“こんなの非効率だ”と書いてある。
「はい」
エリシアは当然のように答える。
「隠した方が、後で時間がかかりますので」
彼は半信半疑のまま、公開棚卸し表の余白を覗き込む。
余白には“立会人異議欄”と“現地体感欄”がある。倉庫内温度、湿気、袋の匂い、虫食いの有無。数だけでは見えないものを、後で責任逃れされないように先に書くのだ。
「そこまで必要ですか」
「去年なら必要でした」
一言で黙る。
実例があると強い。
倉を開けると、今年の備蓄は去年より目に見えて整っていた。袋の積み方が揃い、品目ごとの札がつき、受払表が表に出ている。誰がどの便で何を受け取ったか、その場で見える。
「二番監視所、薬草束二十」
「確認」
「ベルメ携行焼き、一二〇〇枚」
「待った、それ昨日追加した分も入ってるだろ」
「入ってます」
とミラ。
彼女は今や、記録見習いから正式な補給記録補佐へ昇格していた。靴の減りは相変わらず早いが、字の伸びも同じくらい早い。
「だからこそ別欄です。補給便追加分、ここ」
指差された欄には、たしかに追記があり、追加便を運んだ工兵とベルメ組合の副印まで押してある。
若い会計官は絶句し、ハンナは誇らしげに鼻を鳴らした。
「うちの焼き菓子、もうごまかせないだろ」
「ごまかしたくないです」
「言ったね」
ベルメ携行焼きは、結局そのまま正式名称になった。候補の中では一番ましだったからだ。王都ではまだ“兵糧菓子”と呼ぶ人間もいるが、北境では皆この名で通じる。
棚卸しが進むうち、予定外の問題も見つかった。
第四倉の毛布箱が二箱ぶん、帳簿より少ないのだ。
周囲の空気が少しだけ張る。去年までなら、ここで曖昧な咳払いが起きて終わっていただろう。
だが今は違う。
「止めます」
エリシアが言うと、誰も反対しなかった。
その場で箱札、搬入票、貸出記録、補修回収欄を照合する。ノエルが一覧を出し、ミラが貸出先候補を走って確認し、工兵の一人が「あ」と手を挙げた。
「橋工事の仮宿舎へ回した分、返却票を書いてませんでした」
「何箱」
「二箱です」
「理由欄」
「夜の冷え込みが想定以上で、急ぎだったので」
エリシアはその男を睨まなかった。
必要なのは責めることではなく、痕跡を埋めることだ。
「次回からは急ぎ便欄を使ってください」
「はい」
「今回は現認済として、今ここで追記します」
若い会計官がぽかんとする。
「それで終わりですか?」
「終わりです」
「叱責とか」
「必要なら後でやります。でも今は冬の準備が先です」
帳簿の問題は、見つけた時点で半分終わっている。隠さず、その場で直せるならそれが一番いい。前世ではそれが難しかった。誰も“問題が見つかったこと”を自分の評価へ傷として嫌がったからだ。
でもここでは少しずつ違ってきた。
昼過ぎ、棚卸しが一段落すると、前庭に大鍋が出た。
今日の汁は豆と山羊乳、それにサンティルで増やし始めた薬草が少し。橋工事の人足も、監視所の兵も、村代表も、王都から来た若い会計官まで同じ鍋を囲む。
「変な感じです」
その若い会計官がぽつりと言った。
「何が」
とエリシア。
「帳簿って、もっと閉じたものだと思っていました。見るのは上の人だけで、現場の人には読ませないものだと」
「そうしている場所も多いです」
「でもこっちでは、鍋の横にある」
たしかに、その通りだった。
今日の棚卸し表は鍋のすぐ脇に立てかけてあり、誰でも覗き込める。数字と生活が同じ距離にある。
エリシアは少しだけ考えてから答えた。
「帳簿は閉じてもいいんです。原本や証拠は守らなければならないので。でも、閉じる場所を間違えると、人まで閉じ込めてしまいます」
若い会計官は真剣な顔で頷いた。
たぶん今日のことを王都へ持ち帰るだろう。それだけでも十分だ。
夕方、棚卸しが無事終わり、公開表が掲示板へ貼り出された。
穀粉充分、薬草束十分、毛布差額解消、橋補修用釘追加発注、ベルメ携行焼き今季増産決定。
住民たちがその前で足を止め、指をさし、質問し、笑う。
ルシアンは少し離れた場所からその光景を見ていた。
「順調ですね」
エリシアが隣へ立つと、彼は頷く。
「去年の冬とは違う」
「ええ」
「来年はもっと違う」
そう言い切られると、こちらまでそう思えてくる。
空からは、細かな初雪がちらつき始めていた。
新しい靴のつま先に白が乗る。すぐに溶けたが、その一瞬だけ冬の始まりを告げる印みたいだった。
公開記録室の仕事は、きっとこれからも終わらない。
でも終わらないからこそ、積み上がるものもある。
今日数えた袋も、直した返却票も、鍋の横で交わされた質問も、全部が次の冬を少しずつましにしていくのだろう。




