036 消えない名前の話
初雪からさらに半月が過ぎた朝、エリシアは公開記録室の二階で一通の手紙を読んでいた。
差出人は王都監査局、エドガー・レヴェント。
内容はいつも通り簡潔で、感傷の欠片もない。
“公開返金表および公開棚卸し表、王都東区、南区、北門税所で試験導入。反発大。だが効果あり。余白が増えたと文句が多い。なお、余白が増えた分だけ改竄痕跡も増え、監査しやすい。そちらの追加事例があれば送られたし”
最後に小さく追記があった。
“ベルメ携行焼き、王都でも評判が良い。名前はまだださい”
「失礼ですね」
思わず呟く。
でも少し笑ってしまった。
窓の外では、前庭に子どもたちが集まっていた。ベルメとフォーエンから来た子、砦の兵士の子、王都から親と一緒に移ってきた見習いの弟妹。公開記録室の冬季見学会と称して、ミラが新しい地図の読み方を教えているのだ。
「ここがベルメ!」
「こっちがサンティルの薬草谷!」
「前は載ってなかったんだよ」
そう言うミラの声に、エリシアは手紙を畳んだ。
前は載っていなかった。たったそれだけの事実が、今では教材になる。隠されたままではなく、教えられる失敗になったのだ。
下へ降りると、子どもたちが一斉にこちらを見る。
その中の一人、小さな女の子が地図を抱えて走ってきた。サンティル出身のリナだ。
「エリシア先生!」
先生、と呼ばれることにはまだ少し慣れない。
「この道、ほんとにあるの?」
彼女が指したのは、正式図に戻された山羊道だった。ベルメからフォーエンへ抜ける細い道。霧の中で、イナやレオに案内してもらったあの道だ。
「ありますよ」
エリシアはしゃがみ、地図へ指を置いた。
「ただし冬は危ないので、勝手に行ってはいけません」
「じゃあ春になったら行ける?」
「大人と一緒なら」
「やった!」
子どもはそれだけで嬉しそうに笑う。
地図へ載ることは、行ける未来があるということなのだと、その顔を見て改めて知る。
午前の仕事を終えたあと、エリシアは二階奥の記録棚へ向かった。
そこには“消名関連”としてまとめられた一角がある。黄糸台帳、補助印使用簿写し、ベルメ村帳、サンティル陳情書、公開監査会議事録、北境公開記録帳の控え、返金表第一期から第三期まで。
一番手前には、新しく作られた薄い冊子が置かれていた。
“復記村名一覧”
ベルメ、フォーエン、サンティル。
それぞれの名の下に、代表者名、復記日、関連補助再開日、公開掲示日が記されている。
ページの末尾には、別の名簿もあった。
薬資未達で亡くなった者、橋崩落で失った者、飢えで冬を越せなかった者。戻らない名前たちだ。
エリシアはその頁をそっと撫でた。
消えない名前の話をしたい、と時々思う。
戻せた村名も大事だが、戻せなかった命もある。その記録まで含めて残さなければ、また次の都合のいい整理が起きる。
「そこにいたか」
振り返ると、ルシアンが扉にもたれていた。
手には外套と、見慣れた革手袋。どうやら外へ出る支度らしい。
「ベルメへ行く。冬前最後の見回りだ」
「私も行きます」
「仕事は」
「午前分は終わりました」
「午後は」
「ノエルがいます」
ルシアンは少しだけ笑った。
最近、この人は前より笑うようになった気がする。あるいは、こちらが見つけやすくなっただけかもしれない。
外へ出る前、エリシアは復記村名一覧を元の位置へ戻した。
隣に、新しく作っていた小さな札を差し込む。
“この記録は、公開のうえ永続保存とする。閲覧申請不要。ただし原本持出禁止”
オズワルドあたりが文句を言いそうな文言だが、そこは後で話し合えばいい。
前庭へ出ると、子どもたちが新しい地図を前にまだ騒いでいた。リナが大きな声で村名を読み上げ、他の子がそれに続く。
「ベルメ!」
「フォーエン!」
「サンティル!」
その声を聞きながら、エリシアは新しい靴の紐を結び直した。
何度歩いても、この靴は軽い。たぶん、ただ履き心地が良いだけではない。向かう先が、消されないと分かっているからだ。
「行きましょうか」
ルシアンが手を差し出す。
エリシアはそれを取った。
公開記録室の扉は今日も開いている。棚には名前が残り、前庭では子どもたちがそれを読む。王都からは相変わらず面倒な手紙が届くし、返金表にも追加案件が出るだろう。
でももう、名前が勝手に消える時代には戻らない。
少なくとも、この北境では。
そう思いながら、エリシアは冬の光の中へ歩き出した。
新しい靴の底が石畳を鳴らす音は、前より少しだけ頼もしく聞こえた。
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