034 新しい靴で歩く朝
新しい靴は、思っていたより軽かった。
薄い茶革に、辺境の職人が打った小さな銀鋲。丈夫なのに、歩き始めが重くない。つま先の返りも良く、石畳でも山道でも使えるように作られている。
「ぴったりでしょう」
背後でハンナが腕を組んでいた。
ベルメの蜂蜜売上の一部と、フォーエンの革、砦の金具工房の協力で作られたものだという。
「公開記録室長の就任祝い兼、婚姻契約正式登録祝い兼、よく歩いたで賞だよ」
とエルザ。
賞の名目が多い。
「ありがとうございます」
エリシアは本心から頭を下げた。
前世では、靴はいつも消耗品だった。すり減れば買い替えるだけで、そこに物語なんてないと思っていた。
けれど今は違う。この靴には、消された村が戻ってきた道も、北へ通じる山羊道も、王都の階段も、全部が繋がっている気がする。
今日は、正式復記図と公開返金表の第一期完了報告を、砦前の広場へ掲示する日だった。
王都から監査局の使いとしてエドガーも来ているし、北境各村の代表、工兵隊、遺族会、養蜂組合、郵便組合、果ては蜂蜜携行菓子の正式名称投票に参加した子どもたちまで集まっている。
「結局、名前はどうなったんですか」
ミラが跳ねるように聞く。
「北境行軍蜜焼き」
とノエル。
「ださい!」
「監査局案はもっとひどかったです」
エドガーが咳払いをする。
「正式名称は“ベルメ携行焼き”です」
「少しだけ良くなりましたね」
そんなやりとりをしているうちに、広場の掲示台へ新しい地図が運ばれた。木枠にはめられ、布で覆われている。隣には返金表の第一期完了報告。未払い遺族手当完了率、薬資補填率、橋修繕進捗、復帰村支援状況。数字はまだ道半ばだが、途中経過が見える形になっていること自体が以前との大きな違いだった。
「始めるぞ」
ルシアンの声で、広場が静まる。
彼は簡潔に経緯を語った。消えた村があったこと、公開記録によって戻ったこと、返金と補給が続いていること、これからも掲示と照合を続けること。
華美な演説ではない。だが、この人らしい、責任の所在がはっきりした言葉だった。
次にエドガーが、王都監査局でも新様式と公開返金表の試験導入が始まったと報告する。王都の人間からすれば大したことのない文面かもしれないが、広場ではわりと拍手が起きた。
王都も少しはましになるかもしれない、という期待があるのだろう。
そして最後に、布が外された。
新しい地図が、朝の光を受ける。
ベルメ。フォーエン。サンティル。
正式図の中に、もう違和感なくその名がある。折られていた北は真っ直ぐで、橋も道も、監視所も、正しい位置に戻っている。
広場のあちこちから、息を呑む音がした。
ハンナは腕を組んだままそっぽを向いたが、目元だけが少し赤い。エルザは杖を握りしめ、ガルドは何も言わず深く息を吐く。
ミラは最前列で、まるで自分の名前が書かれたみたいに誇らしげだった。
「では」
エリシアは一歩前へ出た。
「公開返金表、第一期完了分を読み上げます」
数字を読み上げる。薬資、橋材、人足賃、遺族手当、蜂箱補助。誰に、いくら、どこまで返ったか。未達分は何が原因で、次便はいつか。
派手ではない。けれど広場の人々は、途中で飽きもしなかった。
これは自分たちの生活に直結する読み上げだからだ。
読み終えた時、大きな拍手が起きた。
地図の復帰や結界の光だけでなく、数字にも拍手が起きる。そんな景色を見られるとは思わなかった。
式の後、公開記録室の入口で簡素な登録手続きが行われた。
婚姻契約の正式登録である。
王都式の豪奢な婚礼ではなく、公開記録室らしく、記録と署名を中心にした手続きだ。立会人はハンナ、エルザ、エドガー、ノエル、ミラ、オズワルド、そしてルシアン本人。
「本当にここでやるんですね」
エリシアが小声で言うと、ルシアンは平然と答えた。
「お前が一番落ち着くだろう」
それは、たしかに否定できない。
登録簿にはすでに条項が整えられていた。公開記録室の独立性、互いの署名権、夕食を抜かないことまで、ちゃんと改訂版に盛り込まれている。誰が書いたのかは聞かないことにした。
「署名を」
エドガーが妙に真面目な顔で進行する。
監査局の若手が婚姻登録の進行役をする光景はなかなか珍妙だが、本人は大真面目だ。
エリシアは新しい靴のつま先を少し見てから、名を書いた。
ルシアンも続く。二つの署名が並び、最後に立会人の印が重なる。
「これで正式登録完了です」
「早いですね」
とミラ。
「書類仕事ですから」
とエリシア。
「じゃあ、夫婦になったんですか」
その問いに、一瞬だけ照れより先に実務的な考えが浮かぶ。
法的にはどう定義されるのか、家名の表記はどうするか、記録室の公私区分は――。
隣でルシアンが静かに言った。
「そういうことになる」
そこでようやく、実感が追いついてきた。
少しだけ頬が熱い。
祝福の声が飛ぶ。ベルメの蜜菓子が回り、フォーエンの木杯に薄い果実酒が注がれる。ハンナは「仕事の邪魔だけはするんじゃないよ」とルシアンへ言い、エルザは「夕食抜き禁止は絶対守らせな」とエリシアへ釘を刺した。
オズワルドだけは「棚番号を変えるなら事前に相談しなさい」と最後までぶれなかった。
ひとしきり騒ぎが収まったあと、エリシアは一人で前庭へ出た。
新しい靴で石畳を踏む感触を確かめる。軽い。よく返る。先へ行ける靴だ。
そこへルシアンが並んだ。
「歩けそうか」
「どこまででも」
エリシアは答えた。
実際、やることはまだ山ほどある。返金は第二期が残っているし、監査局の新様式も全国導入にはほど遠い。ベルメ携行焼きの正式商品札も直したいし、サンティルの薬草谷には灌漑路が必要だ。
でももう、それを一人で抱えて倒れる未来は想像しなかった。
書くべき帳簿があり、読む人がいて、公開する場所がある。隣には契約より先の約束を交わした人もいる。
「行きましょうか」
エリシアが言うと、ルシアンが頷いた。
公開記録室の扉は開いたまま、朝の光を受けている。
新しい地図も、返金表も、誰にでも見える場所にある。
エリシアは新しい靴で一歩を踏み出した。
その一歩は、王都から追い出された日の足取りより、ずっと軽かった。
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