032 王都と辺境のあいだ
公開監査会から一か月、エリシアは人生でいちばん馬車に乗っていた。
王都と北境のあいだを行き来するためである。
断罪と結界再起動で終わってくれれば、話としては美しかったかもしれない。だが実際には、そこから先の方がよほど骨が折れた。
復記された村を正式図へ戻す作業、返金表の確定、慈恵会経由資金の差押え、王都監査局向け新様式の講習、北境側の受領確認、薬資と橋材の追加発注。どれも“誰かがやるだろう”では永遠に進まない仕事ばかりだ。
「本当に三人で回す気なんですか」
王都側の仮執務室で、エドガーが心底嫌そうに言った。
「三人?」
エリシアが首を傾げると、彼は指を折る。
「あなた、私、ルシアン卿です」
「人手不足ですね」
「他人事みたいに言わないでください」
他人事ではない。深刻にこちら側の話だ。
だが文句を言っても帳簿は減らないので、エリシアは北境返金表の新しい版を机へ広げた。
改訂版では、被害項目に“復帰村優先欄”が追加されている。ベルメ、フォーエン、サンティルのように、消名の影響で長期間支援から外されていた村に対し、最初の四半期だけ返金と補給を優先する仕組みだ。
「余白、多すぎません?」
と王都会計課の若手官吏。
「足りないよりはましです」
「でも紙がもったいない」
「消えた村の十年分に比べれば安いものです」
言われた若手はぐうの音も出ない顔になった。
少し可哀想だが、こればかりは慣れてもらうしかない。
王都での講習を終えた翌日には、今度は北境で現地照合が待っていた。
馬車から降りると、春が深まりつつあるベルメの斜面に、新しい蜂箱が整然と並んでいる。補助金第一便で届いたものだ。ハンナは相変わらず素っ気ない顔で出迎えたが、蜂箱の間隔が以前より綺麗に揃っているあたり、気分は悪くないらしい。
「ほら、帳簿屋さん」
彼女は新しい納入控えを差し出した。
「今度は最初から二部書いたよ。あんたがうるさいからね」
「素晴らしいです」
「褒めても蜜菓子しか出ないよ」
「十分です」
実際、その蜜菓子は今や二番監視所の正式携行食候補になっている。ベルメの蜂蜜とフォーエンの木の実、砦の穀粉を組み合わせたもので、保存が利くうえに腹持ちがいい。王都ではすでに“辺境兵糧菓子”などという味気ない仮称で呼ばれていて、エリシアはできればもっとましな名前にしたいと思っていた。
ベルメの次はフォーエンへ向かう。
橋の仮復旧は終わり、今は石橋の本設工事に入っていた。工兵と村人が一緒に作業しており、河原ではサンティル出身の薬草師たちが再び苗床を作っている。
「ここまで戻るとはね」
エルザが杖をつきながら言った。
「正直、半分しか信じてなかったよ」
「私も半分くらいでした」
「役人がそれでどうするんだい」
「残り半分は締切で動いていました」
エルザは呆れたように笑った。
薬草谷の再生計画はまだ始まったばかりだ。だが、公開記録帳へ“再植開始”と書けるだけで違う。来年以降の薬資計画へ正式に乗るからである。
前世の自分が見た申請書の山も、本当はこうやって次の年を作るためのものだったのかもしれない、と時々思う。
フォーエンから砦へ戻る途中、旧街道沿いで見覚えのある人物とすれ違った。
泥だらけの外套を着たセドリックである。
監査局管理下での実地協力中、つまり現地確認のやり直し真っ最中だ。
しかも傍らにはノエルがいて、容赦なく書類を突きつけている。
「ここ、あなたの署名です」
「……はい」
「では、ご自分で崩れた橋を見て、どう感じたか所感欄へ」
「所感欄があるのか」
「今作りました」
ノエルもだいぶ逞しくなった。
エリシアと目が合うと、セドリックは気まずそうに立ち止まった。
以前のような甘い顔はもう作れないらしい。
「その……」
言いかけた彼を、エリシアは手で制した。
「今は現地確認中でしょう」
「そうだが」
「なら仕事を」
それだけ告げて馬を進める。
恨みが消えたわけではない。許したわけでもない。けれど彼に必要なのは、今さら情緒的な謝罪ではなく、自分が軽く押した署名の先を自分の目で見ることだと思った。
砦へ戻ると、公開記録室の看板が仮設から木彫りへ替わっていた。
“グレイフォード領公開記録室”
まだ塗りたての文字が少し眩しい。
「おかえりなさい」
前庭でミラが振り返る。彼女は今や正式な記録見習い兼伝令助手だ。字もかなり上達し、少なくとも以前のような全力で曲がった筆跡ではなくなった。
「今日の案件は?」
「多いです!」
いい返事だ。
中へ入ると、オズワルドが棚の前で腕を組んでいた。
新しい棚割り表を見たのだろう、いかにも不機嫌そうだ。
「公開用の写し棚と原本棚を分けろと言ったのは誰ですか」
とエリシア。
「わしだ」
「その結果、歩数が増えました」
「だから若いのが走ればよい」
「若いのはいつも走っています」
そんなやりとりをしながらも、棚の並びは以前より格段に分かりやすい。原本、写し、公開掲示用、返金処理中、現地照合待ち。誰が見ても迷いにくい構造だ。
夜、作業がようやく途切れた頃、ルシアンが戻ってきた。
彼は今日、北部監視所の再配置と、復記村への護衛路線確認に出ていたらしい。机へ無造作に置いた革筒の中には、新しい正式図の仮刷りが入っていた。
エリシアはそれを広げ、思わず息を呑んだ。
ベルメ、フォーエン、サンティル。
小さな字だが、たしかに地図へ戻っている。
折られていた北が、今はまっすぐに描かれていた。
「いいですね」
「やっと、だ」
ルシアンはそう言って、隣へ立つ。
二人で同じ地図を見下ろす時間が、今ではすっかり自然になっていた。
「王都と辺境、両方回るのは大変でしょう」
彼が言う。
「ええ。でも、嫌いではありません」
前世なら出張という単語だけで胃が痛くなっていた。今も疲れるには疲れるが、向かう先に自分の仕事が実際に届いている感覚があるぶん、ずっとましだ。
「無理はするな」
「ルシアン様こそ」
「その呼び方、そろそろ変わらないか」
「契約書には呼称規定がありません」
「次の改訂で入れるか」
「やめてください」
小さく笑い合う。
それだけで、一日の疲れが少し軽くなる。
王都と辺境のあいだには、まだ遠い道が横たわっている。
制度も人も、一度正しただけではまた歪む。だから行き来し続けるしかない。
けれどその道はもう、正式図から消されていない。
それだけで、ずいぶん歩きやすくなった気がした。




