031 契約より先の約束
ルシアンに呼ばれたのは、その日の仕事が一段落したあとだった。
夕食後、砦の西塔にある小さな執務室。会議用というより、本当に彼個人が使うための部屋らしく、書棚と地図台、それに暖炉があるだけの簡素な空間だ。
外ではまだ夜風が強いが、室内はほどよく暖かい。
「座ってくれ」
言われて腰を下ろすと、机の上に二通の書類が置かれているのが見えた。
一通は王都からの正式文書。もう一通は、まだ封をしていない私的な紙だ。
「王都からですか」
「半分は」
ルシアンは先に正式文書を差し出した。
内容は予想外だった。北境公開記録帳を基礎に、グレイフォード領会計室を“公開記録室”へ改組する提案書である。王都監査局と王宮会計課の共同推薦、国王了承済み。記録公開、返金管理、補給優先順位、村代表との定期照合まで含まれていた。
「これ……本気ですか」
「お前が作った仕組みを、名前だけ借りて他所に持っていかれるのは気に入らない」
実にルシアンらしい理屈だった。
「だから、北境で最初に形にする」
エリシアは文書を読み返す。
公開記録室室長、候補者名に自分の名がある。しかも“独立決裁権を伴う”と明記されていた。
「辺境伯様」
「ルシアンでいい」
不意打ちのように言われ、言葉が止まる。
「仕事中ではありませんので」
「……では、ルシアン様」
「様もいらない」
「それは難しいです」
彼は少しだけ笑った。
その顔を見ると、白鐘の夜を思い出す。怖いと言ってもいいと伝えた時の、あのわずかな緩み。
「もう一通が本題だ」
差し出された封前の紙には、驚くほど簡潔な文章が書かれていた。
“婚姻契約案”
エリシアは文字通り固まった。
「……え」
「嫌なら今すぐ破ってくれ」
ルシアンの声は平坦だったが、手の位置だけが僅かに硬い。緊張しているのだと分かる。あの白鐘の夜、自分には怖いと言っていいと言ったくせに、この人も大概不器用だ。
エリシアはゆっくり紙を開いた。
そこには驚くほど事務的に、しかし驚くほど丁寧に条件が並んでいた。
一、婚姻後もエリシア・ローウェルは公開記録室室長として独立した職権と給与を持つこと。
二、記録公開と返金表の運用について、辺境伯は介入権を持たず、必要時は公開議事で協議すること。
三、居住と家名の扱いは本人の希望を優先すること。
四、子の有無にかかわらず、公開記録室の継続性を別制度で担保すること。
五、相互に隠しごとをしないこと。特に、危険を一方的に背負わないこと。
最後の一文だけ、妙に個人的だった。
「これを、自分で?」
「書いた」
「法務官に?」
「相談はした。笑われた」
少し想像してしまい、危うく笑いそうになる。
「……正直、普通の求婚文句よりずっと嬉しいです」
「普通の求婚文句を言う自信はない」
「でしょうね」
つい答えてしまってから、二人で少しだけ笑った。
笑ったあと、静けさが戻る。
暖炉の火がぱちりと鳴る。
エリシアは婚姻契約案を見下ろしたまま、ゆっくり言葉を選んだ。
「怖いんです」
ルシアンが顔を上げる。
「前の婚約のことだけじゃありません。誰かと一緒になることで、自分の仕事が“ついで”になるのが」
今なら言える。王都では言えなかったことも。
「便利だから、役に立つから、愛想がなくても書類は綺麗だから、そういう理由で隣に置かれるのが、もう嫌なんです」
「分かっている」
ルシアンは即答しなかった。
数秒置いてから、静かに続ける。
「だから条件を書いた。俺はお前を仕事ごと望んでいる。仕事を取り上げてまで隣にいてほしいわけではない」
心臓が跳ねる。
それはたぶん、今いちばん欲しかった言葉だ。
「それに」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「公開記録室がなくなったら、俺が困る」
「ルシアン様」
「補給も税も、もうお前抜きでは回る気がしない」
「それは求婚ですか」
「かなり真剣な」
今度こそ、エリシアは小さく笑った。
笑いながら、泣きそうにもなっている自分に気づく。困る。こんなに嬉しいのは、少し困る。
「条件を一つ、足してもいいですか」
「何だ」
「仕事が忙しい時は、夕食を抜かないこと」
ルシアンが一瞬きょとんとして、それから珍しくはっきりと笑った。
「分かった」
「あと、危険を背負う時は私にも言うこと。白鐘の夜みたいに、一人で抱え込まないでください」
「それはお互い様だ」
「……はい」
沈黙が落ちる。
だが今の沈黙は、居心地が悪くない。
エリシアは契約案の末尾へ、自分の名を書く欄を見つめた。まだ署名していない。ただ、断るために閉じる手にはならない。
「今すぐの返事でなくてもいい」
ルシアンが言う。
「いや」
エリシアは首を振った。
「ここまで細かい契約を出されて、持ち帰って検討しますなんて言ったら、私がひどい人みたいじゃないですか」
「そうかもしれない」
「認めるんですね」
「記録に残すか」
「残します」
軽口を挟みながら、エリシアはゆっくりと署名した。
エリシア・ローウェル。
自分の名前を、自分の意思で書く。
その直後、ルシアンが静かに息を吐いた。
本当に緊張していたのだと分かって、少しだけ可笑しい。
「これで、契約成立です」
「ええ」
「ただし」
エリシアは顔を上げた。
「これはたぶん、契約の始まりでしかありません」
「分かっている」
ルシアンは一歩だけ距離を詰める。
「その先も、できれば一緒に進みたい」
今度は契約条文ではない、ちゃんとした言葉だった。
エリシアは頷き、目を閉じた。
触れた唇は驚くほど短く、驚くほど温かかった。
それだけで十分だった。
派手な誓いはいらない。けれどこの先、何を戻し、何を守るかを、一緒に決めていけると思えた。
契約より先の約束は、たぶんそこから始まる。
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