030 監査は終わらない
三日で終わるわけがなかった。
東区慈恵会の帳簿は表向きこそ整っていたが、整いすぎているがゆえに怪しかった。寄付金の入出金が月末にぴたりと揃い、支援先欄の筆跡が数人で妙に統一され、倉庫費だけが季節に関係なく膨らんでいる。
「きれいな帳簿ほど疑え、でしたね」
エドガーが疲れた顔で言う。
「前世――いえ、昔からの鉄則です」
危うく前世と言いかけて飲み込む。さすがにそこまで正直になる必要はない。
慈恵会の実地検分には、監査局の官吏だけでなく、王命で王宮会計課と王都民政局からも人が出た。組織横断で帳簿を読むなど、王都ではかなり異例らしい。だが異例であること自体が、これまで誰も横を見なかった証明でもある。
倉庫を開ければ、そこに詰まっていたのは救援物資ではなく、高級酒と絹だった。
冬の毛布名義で仕入れた反物、薬資名義で流した香油。慈恵という看板の裏でやっていたことは、想像よりさらに俗悪で、だからこそ処理はしやすかった。
「分かりやすくて助かります」
エリシアが言うと、ユリウスが真顔で返す。
「助かりたくはありません」
ごもっともだ。
同時進行で、エリシアは北境返金表の標準書式を作り始めた。
一枚目に被害項目、二枚目に証拠接続、三枚目に返金優先順、四枚目に現地受領確認。見れば分かる一覧で、かつ後から誰が見ても途中改竄しづらい構成にする。
「こんなに余白を広く取るのですか」
とユリウス。
「書き足しの痕跡を消しにくくするためです」
「最初から不正を前提に?」
「はい」
エリシアは迷わず頷いた。
「不正が起きない書式を作るより、不正が起きた時に痕跡が残る書式を作る方が現実的です」
エドガーが横で小さく笑った。
「監査局向きですね、やはり」
「しつこいですよ」
「諦めが悪いのが長所です」
それはたしかに、と認めざるを得ない。
四日目の夕方、北境から早馬が戻った。
ベルメへ薬資が届き、二番監視所の包帯不足が解消し、ルーン川沿いの橋仮復旧が始まったという。文字で読むだけの報告でも、肩の力が抜ける。
「よかった……」
無意識に漏れた声に、周囲の官吏たちが一瞬手を止めた。
彼らにとっては、数字が一つ動いただけかもしれない。だがエリシアにとっては違う。その数字の先に、ベルメの蜂箱や監視所の負傷兵や、サンティルの生き残りがいる顔が見える。
「ローウェル嬢」
エドガーが真面目な声で言う。
「この返金表、北境だけで終わらせる気はありますか」
「ないです」
エリシアは即答した。
「終わらせたら、また別の地方で同じことが起きます」
「でしょうね」
エドガーは頷く。
「監査局として、公開返金表を王都標準へ引き上げる提案をします。反発は大きいでしょうが、今なら通る可能性がある」
「では、余白の意味を全員に叩き込みましょう」
「楽しそうに言いますね」
「実際、少し楽しいです」
前世の役所では、仕組みを変える話が出る頃には自分が力尽きていた。今は違う。少なくとも、目の前に“変えたい”と思っている人間がいる。
王都での最終日、国王との短い謁見があった。
場所は広間ではなく、小さな執務室だ。老王は以前よりさらに疲れて見えたが、その机の上には北境公開記録帳の写しと返金表が並んでいた。
「読んでいるのですか」
思わず尋ねると、王は少しだけ苦く笑った。
「今さらだがな」
それから彼は、補助印の委任を見直し、公開記録と返金表の制度化を進めると告げた。王としては遅すぎるのだろう。けれど遅いから意味がないとは思わない。
「ローウェル」
帰り際、王が呼び止める。
「北境を戻してくれたこと、礼を言う」
「いえ。戻したのは、消された側の方々です」
エリシアは首を振った。
「私は書いただけです」
「それが難しいのだ」
老王の声は静かだった。
帰路の馬車で、その言葉を何度も反芻した。
書いただけ。けれど、それが難しい。
たしかにそうなのかもしれない。
帳簿を正しく書くこと、読ませること、公開すること。派手ではないが、一番面倒で、一番嫌がられる仕事だ。
だからこそ、必要なのだろう。
北境へ戻る街道は、来た時より明るく見えた。
正式図へ三村の仮復記が反映され、道標にも“ベルメ方面”“フォーエン方面”の札が仮留めされている。たった数文字で、世界の輪郭が変わる。
夕暮れ、砦の門をくぐると、前庭の長机がそのまま出ていた。
ミラが一番に見つけて飛んでくる。
「おかえりなさい!」
「戻りました」
「仕事、山です!」
「知っていました」
会計室の窓板は外され、代わりに新しいガラスが入っている。壁には公開返金表の掲示板まで作られていた。
ノエルが誇らしげに胸を張る。
「もう隠せませんよ」
「素晴らしいですね」
階段の上には、ルシアンが立っていた。
灰色の外套のまま、いつも通り無駄な言葉はない。けれどエリシアを見た瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けたのが分かる。
「三日では済まなかったな」
「申し訳ありません」
「返金表は」
「持ってきました」
「なら許す」
それだけ言って彼は踵を返したが、二歩進んだところで止まる。
「……あとで時間をもらえるか」
たぶん、仕事の話だ。
たぶん。
そう思ったのに、胸が少しだけ忙しくなるのはどうしようもなかった。




