029 返金と精算
王都での熱狂が冷めるより早く、エリシアたちは第二の戦場へ移った。
返金と精算である。
第一王子と財務大臣が失脚したからといって、消えた金が勝手に袋へ戻るわけではない。凍結口座の確認、差額の算定、優先順位の整理、現地未払いとの照合、偽名義口座の追跡。しかも今回の不正は北境だけで閉じておらず、王都東区慈恵会を経由した複数案件が絡んでいる。
要するに、膨大だった。
「やはりこうなりますよね」
エリシアは監査局臨時室の机で呻いた。
机の上には黄糸台帳、補助印使用簿、公開記録帳の写し、東区慈恵会の出納簿、北境の現地未払い一覧が積み上がっている。窓の外ではまだ王都の春祭りが続いているらしいが、こちらには一切関係がなかった。
「むしろ、思ったより整理されています」
向かいで淡々と言うのはエドガーだ。
王子失脚後、彼は露骨に忙しくなった。監査局の中でも“火中の栗を素手で掴んだ若手”として注目されているらしいが、本人はまったく楽しそうではない。
「どこがですか」
「あなたが一覧を先に作っていたからです」
それはそうかもしれない。
被害側の一覧がなければ、凍結資金を何へ戻すかの基準すら曖昧になっていたはずだ。
「ローウェル嬢、こちらを」
別の机から呼んだのは、監査局の中堅官吏であるユリウスだった。真面目だが融通が利かないタイプで、最初は辺境仕込みの公開記録方式を露骨に警戒していた。しかし三日も一緒に作業すれば、彼も“形式だけでは返金できない”と理解したらしい。
差し出された紙には、凍結資金の内訳がある。
王都東区慈恵会、財務大臣府の臨時再配分金庫、第一王子補助印下の特別整理口、さらには死者俸給代理受領口座まで。合計額を見て、エリシアは乾いた笑いを漏らした。
「北境三年分の薬資と橋修繕を一度に賄えますね」
「笑えません」
とエドガー。
「笑っていません」
王都の帳簿から奪い返した金を、今度は正しい列へ戻す。
それは地味で、面倒で、派手な断罪よりよほど時間がかかる。けれど、ここをやらなければ全部が見世物で終わる。
ルシアンは今日、北境向け第一便の出立準備で外へ出ていた。薬資、包帯、橋材、補修用鉄具、そしてベルメへの正規蜂箱補助金。公開監査会の後、国王は北境優先補給を再開する詔を出したが、紙一枚で荷馬車は動かない。
誰かが金額を割り振り、納品札を書き、受領先を明記し、優先順を固定しなければならない。
つまり結局、エリシアの出番だった。
「まず北境薬資を最優先で切ります」
彼女は新しい返金表を引き寄せた。
「次に橋修繕費、その次が未払い遺族手当。幽霊俸給口座の残高はすべて実名被害者へ再配分。慈恵会経由分は用途不明分を全額凍結したまま、個別照合後に返金」
「法的根拠は」
とユリウス。
「王命と公開監査会議事録、それに被害一覧です」
「公開監査会って便利ですね」
「だから公開したんです」
口では軽く返したが、実際その効力は大きい。密室の決裁より、読み上げられた議事と掲示された一覧の方が、人は覆しにくい。
午後、臨時室の扉が開き、見慣れないほど地味な服を着たセドリックが入ってきた。
肩の傷はまだ完全には治っていないらしく、動きが少し硬い。王命による監査協力中の身で、逃亡防止の監視付きだ。
「来ました」
「見れば分かります」
エリシアが冷たく返すと、彼は苦笑した。
以前のような作り笑いではなく、自分でもみっともないと分かっている人間のそれだ。
エドガーが机を叩く。
「では、“現地確認済”と署名した案件の実地照合、全部お願いします」
セドリックは目を閉じた。
たぶん今の彼にとって、それが一番きつい罰なのだろう。自分が適当に押した署名の現場を、今さら一つずつ見に行かされるのだから。
「分かりました」
「あと、黄糸台帳の略号一覧を完全化してください」
とエリシア。
「どの略号が誰を指すか、あなたなら分かりますよね」
「……ええ」
「逃げずに全部書いてください。今回は私が帳尻を合わせるつもりはありません」
セドリックは俯いたまま頷いた。
その姿に溜飲が下がるかといえば、そうでもない。ただ、ようやく数字の重さを本人へ返せたとは思った。
夕方、返金第一号が決まった。
二番監視所向け薬資不足分、サンティル関係遺族手当、ベルメ橋仮復旧材費。金額としては大きくない。だが優先順が正しい。
エリシアは支払い札へ印を押し、ルシアンの待つ中庭へ走った。
荷馬車は四台。薬箱、包帯、鉄具、穀粉。護衛兵たちが最後の縄を締めている。ルシアンは馬上ではなく、自ら荷札を確認していた。
「間に合いました」
息を切らせて差し出すと、彼はすぐに受け取り、札と積み荷を見比べる。
「薬資優先、橋材第二、遺族手当別便」
「はい。遺族手当は現金輸送の方が危ないので、監査局立会いで後送です」
「妥当だ」
一言で承認される。
それだけのことなのに、王都で何百枚書いても得られなかった感覚がある。ちゃんと読まれ、ちゃんと判断されたという感覚。
「北へ戻りますか」
ルシアンが問う。
一瞬、はいと答えそうになった。戻りたい。あの灰色の砦へ、前庭の長机へ、ベルメとフォーエンへ。
けれどエリシアは首を振った。
「あと三日だけ王都へ残ります」
「三日」
「返金表のひな形を完成させます。今ここで仕組みにしておかないと、また“例外処理”で握り潰されます」
ルシアンは数秒黙った後、頷いた。
「では三日後に戻れ」
命令のようでいて、待つと言っているのだと分かる。
それが妙に嬉しくて、困った。
「はい」
返事をすると、彼はふと小さな布袋を差し出した。
「何ですか」
「北境用の試作品だ」
開けてみると、ベルメの携行蜜菓子だった。しかも一つだけ、角が少し欠けている。
「味見済みですか」
「安全確認だ」
「そういうことにしておきます」
思わず笑うと、ルシアンの目元もわずかに緩んだ。
荷馬車が動き出す。薬箱が揺れ、橋材が軋み、護衛兵の声が重なる。
それを見送りながら、エリシアはようやく本当の意味でひと息ついた気がした。
断罪も、告発も、結界の再起動も大事だった。
でも一番欲しかった景色は、もしかするとこれだ。
正しく書かれた荷札が、正しい荷馬車に載って、必要な場所へ向かっていく景色。
「次、東区慈恵会の洗い出しです!」
背後からエドガーの容赦ない声が飛ぶ。
「……戻ります」
「当然です」
現実は厳しい。
それでもエリシアは、布袋の蜜菓子を一つ口へ放り込み、もう一度走り出した。
甘さは控えめだったが、仕事に戻るにはちょうどよかった。




