028 第一王子、終了のお知らせです
盟約結界の光が北へ走ったあと、広場には妙な静けさが落ちた。
歓声はすぐには続かなかった。王都の人々は、目の前で起きたことの意味を飲み込むのに時間が必要だったのだろう。
紙へ書き、名を読み、印を押しただけで、遠い辺境の霧が晴れ、結界が戻った。
つまり逆に言えば、それを壊したのもまた人為だったと誰の目にも分かったのだ。
最初に動いたのは国王だった。
「アルノルト」
名を呼ばれた第一王子は、それでもまだ崩れなかった。
憤怒と屈辱で顔を歪めながらも、王子としての体面だけは保とうとしている。
「父上、これは一時的な現象にすぎません。地方の迷信と政治的扇動を結びつけ――」
「黙れ」
国王の声は低かったが、先ほどまでとは違う強さがあった。
「余の印を預かり、余の知らぬところで村を消し、人を守る記録を削った。しかも証言者を公衆の面前で消そうとした」
近衛たちの視線が一斉にアルノルトへ集まる。
今までは王子であることが盾だった。だが公衆の面前で、王がその盾を外し始めている。
バルタザールが滑り込むように前へ出た。
「陛下、すべては私の不徳です。殿下は国のために――」
「国のため?」
ルシアンが嘲るように言った。
「辺境の薬と橋を削り、死者へ給金を流し、証言者を消すことがか」
「感情で行政は回らぬ」
「感情ではない。帳簿だ」
エリシアは一歩前へ出る。
「あなた方はずっとそうでした。人が死んだと言えば感情論だと笑い、橋が落ちたと言えば地方の甘えだと切り捨てる。でも今日戻った結界は、感情で戻ったわけではありません。記録を正したから戻ったんです」
広場の奥から、大きく頷く人影がいくつも見えた。
商人、兵士、遺族、書記、縫い子、郵便組合の女たち。誰もが、それぞれの場所で記録の遅れや歪みの被害を受けていたのだ。
国王は侍従へ向かって告げた。
「第一王子アルノルトの補助印権限をただちに停止する」
アルノルトが目を見開く。
「父上!」
「さらに、王位継承権を含む一切の公権を凍結し、王宮内にて謹慎。財務大臣バルタザール・ロヴィスは官職剥奪、監査局立会いのもと身柄を拘束せよ」
広場がどよめいた。
王族に対してそこまで明言するのは、相当のことだ。
バルタザールはなおも抵抗した。
「証拠はまだ精査中です! 国の中枢をこのような群衆の前で――」
「群衆ではない」
国王は公開記録帳を指した。
「記録の持ち主たちだ」
その言葉で、広場の空気が一変した。
見物人だった者たちが、自分たちもまた記録の側にいるのだと理解する。税を納め、働き、遺族手当を待ち、門税を払い、帳簿に書かれる全員が当事者なのだと。
近衛が動き、バルタザールを取り押さえる。アルノルトは剣を抜こうとしかけたが、周囲の近衛は誰一人ついていかなかった。
ルシアンの手が剣柄へ添えられただけで、王子は完全に動きを止める。
「……覚えていろ」
絞り出すようにアルノルトが言う。
エリシアは首を傾げた。
「記録に残しておきます」
それは狙って言ったわけではなかったが、広場のあちこちで笑いが起きた。
張り詰めた空気の中で、その笑いは妙に痛快だった。
やがてアルノルトも連行され、階段の上から二つの影が消える。
ようやく、本当に終わったのだという実感が少しずつ広がった。
だがエリシアはまだ終わらせない。
「陛下」
国王へ向き直り、深く一礼する。
「お願いがあります」
「申せ」
「処罰と同時に、返還と公開を命じてください」
広場が静まる。
「没収だけでは、辺境の冬は戻りません。必要なのは、消された村と未払い案件の一覧公開、横流し資金の返還、再計算の期限設定です。罰するだけで終われば、また誰かが“仕方なかった”と書き換えます」
エドガーが小さく息を呑み、次いで静かに頷いた。
監査局の官吏たちも、今の提案がいかに重いか分かっている顔だ。
国王はしばらく考え、やがてはっきり告げた。
「よかろう」
その一言で、次々と命令が下る。
北境公開記録帳を正式復記の仮本として王宮と監査局へ登録。黄糸台帳記載分の送金凍結。消名処理を受けた村、および関連補助削減案件の全件再監査。未払い優先順位を北境から再計算。結果は十日ごとに公開掲示。
王都の書記官たちは顔をしかめつつも筆を走らせた。
おそらく地獄のような作業量だろう。だがそれは、辺境がこれまで押しつけられてきた地獄の精算でもある。
広場の端では、応急手当を受けたセドリックが担架へ乗せられていた。
彼は青い顔のまま、こちらを見ている。
「処遇は?」
とエドガーが問う。
国王は少し考えた後、答えた。
「証言と手帳提出、補助印使用簿への接続証明をもって、死罪は免ずる。だが共犯であることは変わらぬ。全資産の一部凍結、監査局管理下での実地証言協力、ならびに北境再監査への従事を命ず」
セドリックは目を閉じた。
屈辱だろう。王都の出世街道から転げ落ち、辺境の再監査へ回されるのだから。
だが、妥当だとエリシアは思った。彼が向き合うべきなのは、自分が署名した現場の数字だ。
担架が動き出す前、セドリックがかすれた声で呼んだ。
「エリシア」
足を止める。
「……君は、最初から、こうするつもりだったのか」
「いいえ」
エリシアは正直に答えた。
「最初はただ、未払いを払いたかっただけです」
それが本当に始まりだった。
請求書一枚を拾ったところから、全部が動いた。
セドリックは力なく笑った。
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
必要ないと思った。
広場ではようやく、結界再起動の歓声と、王子失脚のざわめきと、再計算命令への悲鳴めいた笑いが入り混じっていた。
王都の秩序は崩れていない。だが、静かに組み替えられ始めている。
エリシアは公開記録帳へ手を置いた。
まだ終わりではない。
返金、再計算、村の復帰、道と橋と薬箱。むしろこれからが本番だ。
けれど少なくとも今日、消された名前は戻った。
それだけで、十分に世界は違って見えた。




