027 盟約結界、再起動
王家の復記印が届かないまま、公開記録帳への記載作業は始まった。
階段の中央に長机が追加され、王宮前広場そのものが巨大な記録室になる。これまで見たどんな会計処理よりも騒がしく、どんな宮廷儀礼よりも真剣な場だった。
「ベルメ村、代表ハンナ・ベルメ」
エリシアが読み上げ、ハンナが村印を押す。
横でエドガーが監査局確認印、ルシアンが辺境伯印を押した。続いてガルド、エルザ。遺族、納入者、証言者。印泥の赤が、白い頁に次々と増えていく。
「次、北境薬資未達被害者遺族」
「ここだ」
「次、橋修繕未払い工兵代表」
「私です」
もはや三村だけではない。消名によって連鎖的に削られた支払い、遅れた薬資、未達の備蓄まで、関連記録として一緒に紐づけていく。北境公開記録帳は頁をめくるごとに厚みを増し、ただの証拠ではなく、“戻すための仕組み”そのものになっていった。
遠隔水晶板の向こうでは、北境の霧がまだ渦巻いている。
銀爪の群れと、霧に紛れた獣影が時折ちらつくたびに、広場の空気がざわめいた。
「急げ」
サイラスが王都まで駆けつけていたわけではない。だがルシアンの声には、彼と同じ焦りがあった。
その時、階段脇の近衛が騒ぎ出した。
印箱係が見つかったという報告だ。だが運び込まれた箱は不自然に軽く、蓋を開けた侍従が青ざめる。
「空です……!」
広場が凍りつく。
誰かが抜いた。王家の復記印だけを。
バルタザールがなおも平静を装う。
「残念だが、印がなければ正式復記はできまい。ここは一度――」
「できます」
エリシアはその言葉を遮った。
自分でも驚くほど、声がよく通った。
「補遺二には、王家名代の立会いと復記意思の明示があれば、印は後追いでも仮復記成立とあります。公開の場で王が名を読み、記録官が書き、辺境伯と現認人が押している今、この帳簿はすでに動いています」
「詭弁だ!」
アルノルトが叫ぶ。
「では陛下、ご意思を」
エリシアは国王へ向き直った。
「ベルメ、フォーエン、サンティルを、王家の保護記録へ戻すとここでおっしゃってください」
広場の全員が、国王を見た。
王は長く沈黙した。その間にも遠隔水晶板の向こうでは、砦外縁で銀の影が増えている。
やがて老王は、ゆっくりと立ち上がった。
侍従の助けを振り払い、自分の足で長机の前へ来る。
「余は」
その声は震えていたが、確かに広場へ響いた。
「ベルメ、フォーエン、サンティル、および消名により不利益を受けた北境の民を、王家の保護記録へ戻す」
その瞬間、空気が鳴った。
本当に音がしたのだ。遠雷に似た、しかしもっと近い振動。長机の上の公開記録帳が微かに震え、インク壺の表面が揺れた。
ハンナが息を呑む。
エルザは杖を握りしめ、ミラは思わず「うわ」と声を漏らす。
「続けます!」
エリシアは頁を押さえた。
止めてはいけない。今こそ最後まで書き切る時だ。
その時だった。
階段上からバルタザールの側近が飛び出し、長机へ突っ込んできた。狙いは公開記録帳そのもの。抱えて逃げるか、最悪破る気だ。
「させるか!」
ミラが机へ身を投げ出し、帳簿を抱え込んだ。側近の手が帳簿の端を掴む。紙が嫌な音を立てる。
次の瞬間、エリシアの指先へ残響が走った。
――右から来る。油を撒いた。
とっさに帳簿の左端を引く。側近の懐から落ちた小瓶が石段で割れ、油が広がる。火をつけるつもりだったのだ。
「衛兵!」
ルシアンが剣の柄で男の腕を打ち、エドガーが倒れ込むようにして小瓶の残りを蹴り飛ばす。周囲の近衛が遅れて男を取り押さえた。
アルノルトが顔を歪めた。
「無能どもめ……!」
その失言を、広場の全員が聞いた。
一方、水晶板の向こうでは北境の空が裂けるように白く光り始めていた。
結界が壊れる前触れか、それとも――。
「次の頁!」
エリシアは叫ぶ。
「北境監視所、二番、三番、四番。記録上の優先補給復旧!」
ノエルはいない。だがここには王宮書記官も、監査局官吏もいる。全員を使う。
書記たちは最初戸惑ったが、国王が「書け」と命じると一斉に筆を走らせた。
「薬資復旧!」
「備蓄復旧!」
「橋修繕優先!」
一つずつ書き、現認人が確認し、印が重なる。
赤、黒、深緑、村ごとの色。秩序だった印の列は、まるで結界を縫い直す針目のようだった。
そして最後の欄に、国王が自ら名を書いた。
本来なら復記印が押される場所だ。
だが今はない。ならば名で代える。
王の筆跡そのものが、公開の場での責任になる。
その瞬間、遠隔水晶板の向こうで白い線が走った。
砦の上空に、まるで新しい地図を描くように光の格子が広がっていく。霧が裂け、銀爪の群れが弾かれる。北の山肌に沿って、古い石標が次々と淡く輝き始めた。
「……戻った」
ハンナが呆然と呟く。
ベルメへ続く山道。フォーエンの森。サンティルの旧薬草谷。正式図から消されていた北の線が、光となって現れている。
盟約結界が、再び動き始めたのだ。
広場は一瞬、声もなくその光景に見入った。
次いでどこからともなく歓声が上がる。遅れて別の場所からも。王都の真ん中で、辺境の光景へ歓声が上がるなど、誰が想像しただろう。
エリシアは帳簿を抱えたまま、しばらく息もできなかった。
書いた。読んだ。押した。たったそれだけなのに、世界が応えた。
ならばこれまで消されてきたものも、やはり人の都合で消されていただけなのだ。
戻せる。
戻せるのだ。




