003 地味魔法は倉庫の嘘を逃がさない
その日の夜、灰鷹砦西側の旧倉庫には、月の光すらまともに届かなかった。
兵糧庫は城壁に沿って三つ並んでいるが、使われなくなった旧倉だけは半分朽ちた外壁のせいで薄暗い。風が隙間から吹き込み、積まれた樽の間を湿った土の匂いが流れていく。
エリシアは厚手の外套を押さえながら、足元に気をつけて歩いていた。
隣にはルシアン、その少し後ろに副官のサイラスと、灯り持ちの兵が一人。辺境伯自らの夜回りという異常事態に、倉庫番の男は顔面蒼白だった。
「こ、ここが旧倉です。ですが、今はほとんど使っておりませんで……」
言い訳が早い。
しかも鍵を開ける手が震えている。
扉が軋んで開く。古い麦袋の匂いが一気に吹き出した。
「灯りを」
ルシアンの一言で兵がランタンを掲げる。
揺れる橙の光が、奥まで並ぶ袋の山を照らした。
エリシアは目を細めた。
使っていないと言ったわりに、床の足跡が新しい。袋の積み方も不自然だった。外から見える手前だけは整っているのに、奥へ行くほど雑になり、数を誤魔化す時の置き方になっている。
彼女は一番手前の搬入票の束へ触れた。
――夜明け前に移せ。
――二十袋では足りません。
――なら帳簿の数字を減らせばいい。春になれば補充される。
――ばれます。
――辺境の会計室に誰がいる? 死人か、逃げた書記だけだ。
乾いた笑いが耳の奥で響く。
「やはり」
エリシアは奥の袋山へ歩み寄る。袋の口を縛る紐の色が、途中から微妙に違っていた。王立兵糧庫の正式納品は灰青の麻紐だが、十袋ごとに混ざるのは商会流通で使われる赤茶の撚り紐。
「倉庫番殿」
呼びかけると、男がびくりと肩を震わせた。
「はいっ」
「使っていない倉庫に、なぜ民間商会の紐が混ざっているのでしょう」
男の目が泳ぐ。
「そ、それは、その、以前の在庫が」
「では、以前とはいつでしょう。二年前の納品規格変更前ですか。変更後ですか」
返事がない。
ルシアンが無言のまま一歩前に出た。それだけで男は膝から崩れ落ちた。
「し、知らねえ! 俺は数を言われた通りに合わせただけだ!」
自白としては十分だった。
だがエリシアはそこで終わらせない。
「言われた通り、とは誰に」
「ほ、補給隊長のヨルク様と、会計室の下働きが……! 西倉へ移せって、余りは別帳簿へって……!」
サイラスの顔が険しくなる。
「ヨルクか」
ルシアンは短く命じた。
「補給隊長を拘束しろ。会計室の人員もすべて起こせ」
兵たちが駆け出す。
倉庫番は泣きながら床に額をこすりつけた。
だが、まだ終わっていなかった。
「辺境伯様」
エリシアは袋の一つを軽く叩く。
音が鈍い。穀物の詰まった重さではない。
ナイフを借りて口を少し裂くと、中からざらりと落ちてきたのは砂だった。
サイラスが息を呑む。
「……なんだと」
「重量だけ合わせています。実数は帳簿よりさらに少ないかと」
ランタンの光の中で、砂はいやに冷たく見えた。
兵糧袋のふりをした、ただの重し。
現場を見ない人間相手なら、荷車の数だけでごまかせる手口だ。
前世でも似たことがあった。工事資材の納品量をごまかすために、見えない場所へ別材を詰める。世界が違っても、やることは変わらないらしい。
「数えましょう」
エリシアの提案で、その夜は倉庫の総点検になった。
袋を一つずつ開け、帳簿と照らし、現物を数える。兵士たちは最初こそ渋い顔をしたが、砂袋が三つ、五つ、七つと見つかるにつれて表情を失っていった。
夜明け近く、結果が出る。
帳簿上二百袋あるはずの麦は、実際には百四十一袋分しかなかった。
差し引き五十九袋。兵士三百人の十日分に相当する。
「冬を越せなくなるところだったな」
ルシアンの声は静かだった。
静かなのに、怒鳴り声よりよほど冷たく響く。
その場で連行されてきた補給隊長ヨルクは、最初こそ「誤差です」「混乱です」と喚いたが、搬入票、鍵の貸出記録、倉庫番の証言、そして砂袋の現物を突きつけられて沈黙した。
「差額の流れ先は?」
エリシアが問うと、ヨルクは唇を噛んだまま答えない。
その代わり、彼の袖口に触れた時、別の残響が走った。
――王都の印を見たら逆らうな。
――春の査察まで隠せ。あとは向こうが片づける。
王都の印。
エリシアは顔を上げたが、今は言わなかった。証拠が足りない。残響だけでは裁けない。紙と人と物が揃って、初めて帳簿は刃になる。
「ひとまず、明朝の配給を組み替えます」
彼女はすぐに次の手順へ移った。
「第一倉庫の良品を前倒しで開けて、痛みのある分から消費します。西町の製粉所には追加の粉挽きを依頼。荷車の手配が必要です。あと、明日の昼までに副倉庫の在庫票を全部作り直します」
徹夜明けの兵たちはぎょっとした顔をしたが、ルシアンは迷わず頷く。
「必要な人数を出せ」
そこから先は戦場のようだった。
エリシアは会計室へ戻るなり、床の書類を年次別・案件別・支払段階別に分けた。新しく運び込まれた机の上に、未処理、要再確認、保留、不正疑い、と箱を並べていく。補助につけられたのは、砦の雑務をしていた少女ミラと、片腕に包帯を巻いた負傷兵のノエル。
ミラは十四歳で、靴底をすり減らす速さだけは砦一番だと自称した。
「字は下手だけど、走るのは得意!」
「十分です。ではこの一覧を西町の製粉所へ。帰りに門番から荷車の空きを聞いてきてください」
「了解!」
飛び出していく背中が頼もしい。
ノエルは書類慣れしていないぶん、言われた通りに仕分けるのが上手かった。
昼過ぎには、会計室の景色が少し変わっていた。
崩れていた帳簿の塔は低くなり、床が見え、窓も開いた。湿気を追い出し、暖炉に火を入れ、乾いた布で棚を拭く。死んだままだった書類に、ようやく呼吸の場所ができる。
「……信じられん」
扉口で呟いたのはサイラスだった。
「昨日まで墓場だったのに」
「墓場でも、埋める順番が決まれば静かになります」
エリシアが真顔で言うと、彼は一瞬だけ困ったように笑った。
夕刻、ルシアンが再び姿を見せる。
彼の手には簡素な木箱があった。
「何でしょうか」
「筆記具だ。前の会計長が倒れてから、まともなものが残っていないと聞いた」
中には新しいペン先、インク壺、目盛り付きの定規、薄手の手袋まで入っていた。
どれも実用品で、装飾気はない。
だが、必要なものが必要なだけ揃っている。
エリシアは少しだけ目を見開く。
こんなふうに、仕事のための道具を当たり前のように補充してもらったことが、驚くほど少なかった。
「ありがとうございます」
「礼は結果で返せ」
「そのつもりです」
短いやりとりだった。
けれど、前世でも今世でも、仕事の道具を軽んじない人間は信用できる。
エリシアの中で、ルシアン・グレイフォードという人物の評価が一段だけ上がった。
その夜、砦の食堂では久しぶりに十分な量の麦粥が配られた。
兵たちは事情を詳しく知らないまま、いつもより重い椀にざわめいている。
ミラは誇らしげに胸を張った。
「エリシア様が、盗まれてた分を取り返したの!」
「まだ全部ではありません」
「でも始まりでしょう?」
そう言われ、エリシアは少しだけ言葉に詰まる。
始まり。
たしかにそうかもしれない。
王都では誰かの補助でしかなかった仕事が、ここでは直接、人の食事に変わる。兵士の顔色に変わる。明日の行軍に変わる。
椀から立つ湯気の向こうで、ルシアンがこちらを見ていた。
目が合うと、彼はほんのわずかに顎を引く。それは貴族の社交辞令ではなく、現場の責任者が同じ責任者へ送る無言の了承に近かった。
悪くない。
そう思った直後、会計室の隅に積んでいた古い輸送台帳が、ぱらりと一枚だけめくれた。
風などないのに。
嫌な予感がして近づき、触れる。
――春の査察まで。南門を通した分は別記録に。
――印は赤鍵の庫に保管。消えた村の分もまとめろ。
赤鍵の庫。
消えた村。
エリシアはゆっくりと顔を上げた。
ただの兵糧横流しではない。
もっと古く、もっと根深い何かが、この辺境の帳簿に巣食っている。
そしてそれはたぶん、王都までつながっている。
少しでも面白いと思っていただけたら、評価や応援で後押ししていただけると嬉しいです。




