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婚約破棄されたので、不正会計を暴きます ~地味な書記魔法の私ですが、辺境伯領を立て直したら冷徹辺境伯がなぜか離してくれません~  作者: 小竹X


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002 左遷先は冬より先に書類が死んでいた

王都を発って六日。


石畳の街道はとっくに途切れ、馬車はむき出しの岩と泥を踏みしめながら、北西へ北西へと進んでいた。

窓の外では空が低い。春の名残はとうに薄れ、山肌にはまだ古い雪がへばりついている。吹き込む風は冷たく、御者台から聞こえてくる怒鳴り声も荒かった。


「次の坂を越えりゃ、灰鷹砦が見える!」


灰鷹砦。

グレイフォード辺境伯領の南門にあたる砦だと、同乗している商人が教えてくれた。

彼はエリシアが王都からの異動者だと知ると、最初こそ気の毒そうな顔をしたが、すぐに現実的な口調になった。


「まあ、会計係ならまだいいさ。兵士だったらもっと悲惨だ。あそこは雪と泥と戦費不足でできてるような土地だからな」


身も蓋もない評価だった。

けれど、エリシアは少しだけ口元を緩める。


戦費不足でできている土地。

つまり、見るべき帳簿があるということだ。


王都を離れてから、前世の記憶はますます鮮明になっていた。

地方自治体の契約監理課。臨時職員として三年働き、いつの間にか正規職員より書類に詳しくなって、それでも名前は誰にも覚えられなかった。上司の機嫌で仕事が増え、期限前になると机の上に書類の山が積まれ、帰り際に「悪い、これ明日朝まで」と笑われる。


そしてある夜、監査用の資料を抱えたまま、エアコンの切れた事務室で眠ってしまった。

眠ったまま、終わった。


(前世でも、最後に見ていたのは帳票だったものね)


我ながら救いがない。

しかし同時に、妙な納得もあった。どうして自分が数字と書類の匂いに、こんなにも馴染んでいるのか。どうして不自然な改竄や、余白の癖がすぐ分かるのか。


生まれ変わってもなお、向いている仕事は同じらしい。


「お嬢さん、顔色が悪いぞ」


向かいの老婦人に言われ、エリシアは軽く首を振った。


「大丈夫です。少し考え事を」

「考えてどうにかなる土地じゃないがねえ。あそこは書類より薪が大事だよ」


たぶん、その認識も半分は正しい。

書類だけでは人は温まらない。だが、書類が死ねば薪も届かない。


坂を越えると、本当に砦が見えた。

灰色の石で組まれた高い城壁。その外側にへばりつくように小さな町が広がり、煙突から細い煙が何本も上がっている。遠目にも、どこか痩せた土地だった。


馬車が門をくぐる。

検問の兵が荷台を覗き込み、異動辞令を見るなり渋い顔をした。


「王都から? 今さら書記官なんて送って寄越したのか」


歓迎とは言いがたい。

だが、その兵はすぐに別の若者を呼び、会計室まで案内をつけてくれた。


砦の内側は外よりさらに慌ただしい。行き交う兵士、修繕中の荷車、乾いた咳をこぼす荷運び人。どこもかしこも足りていないという気配がある。


「こちらです」


案内役の少年兵が立ち止まった建物は、砦の端に押しやられたような石造りの平屋だった。

扉を開けた瞬間、エリシアは思わず立ち尽くした。


冷たい空気。

濃い黴の匂い。

壁際まで積み上がった帳簿の山。口を開いたまま崩れかけた棚。床に散らばる伝票。割れた窓から吹き込んだのか、紙の端が湿って波打っている。


そして、書類たちがうめいていた。


触れなくても分かる。記録としての寿命が尽きかけた紙は、残響を濁らせる。書かれた意図も、承認の流れも、支払いの約束も、すべてが腐って混ざっていく。


「これは……」


口に出した声は、想像以上に乾いていた。


「死んでるでしょう」


背後から低い声が落ちてきた。


振り返ると、扉のところに長身の男が立っていた。

黒に近い灰色の軍装。肩にかかる外套の縁に薄く雪が残っている。髪は深い鉄色、目元は厳しく、抜いた剣より先に沈黙が人を斬りそうな顔だ。


グレイフォード辺境伯、ルシアン・グレイフォード。


王都では、冷徹で愛想がなく、戦場以外では石像のような男だと聞いていた。

実際に見ると、その評判はだいたい合っていた。ただし、石像にしては目がよく動く。部屋の惨状だけでなく、エリシアの箱、裾の泥、馬車酔いを隠した呼吸の浅さまで見て取っているようだった。


「書類が死んでいる、と?」


試すような声音。


エリシアは一礼した。

「本日付で着任いたしました、エリシア・ローウェルです。王都会計院より異動命令を受け――」

「その経緯は聞いている」


ぴしゃりと遮られる。


「改竄の嫌疑がかけられ、婚約も破棄された」


兵士も少年もいる前で言うあたり、情け容赦がない。

それでもエリシアは眉ひとつ動かさなかった。


「はい。ですが、嫌疑は事実ではありません」

「王都でそう主張しなかったのか」

「しました。通りませんでした」


ルシアンは無言で数秒、彼女を見た。


「正直だな」

「無駄な飾りをつけても、紙には残りませんので」


その返答が気に入ったのか、あるいは呆れたのか、彼の口元がわずかに動いた。笑いとは言えない程度に。


「では改めて聞こう。死んでいるのは書類だけか」


エリシアは室内を見渡した。

机は二つ。片方の足が折れかけている。暖炉の灰は冷え切って久しい。古い決裁箱の中には開封すらされていない請求書が詰まり、壁際の棚には年次の違う台帳が無造作に混ざっている。


「人手と手順も死んでいます」


部屋の空気が一瞬止まった。

案内役の少年兵が、ひっと小さく息を呑む。


だがルシアンは怒らなかった。

むしろ当然だと言わんばかりに腕を組む。


「そうだ。会計長は先月、過労で倒れた。副官は補給隊へ回した。残った書記は逃げた」

「逃げた……」

「王都の商会へ。給金が三倍だったらしい」


現実的すぎて、責める気にもなれない。


「現在、未処理の支払い請求は?」

「概算で三百七十件」

「倉庫在庫の月次照合は」

「二月で止まっている」

「兵站計画と実際の搬入数量の突合は」

「していない」


エリシアは静かに目を閉じた。

ひどい。思っていた以上にひどい。これは左遷先というより、書類の墓場だ。


けれど――。


(いいわね)


前世の庁舎では、こういう惨状を見つけても決裁権のある誰かが首を縦に振らなければ何も動かせなかった。

だがここでは、目の前に辺境伯がいる。

現場の長が、未処理と不足を正面から認めている。


話が早い。


「十日ください」


ルシアンの眉がわずかに上がる。


「何ができる」

「死んでいる書類のうち、まだ蘇生可能なものを仕分けます。支払いの優先順位をつけ、倉庫在庫と兵站計画を最低限つなぎます。加えて、誰がどこで帳簿を止めているか洗い出します」


「十日で?」

「はい。ただし条件があります」


今度は周囲が驚いた。

異動してきたばかりの左遷令嬢が、辺境伯に条件をつけたのだから無理もない。


「言え」


「会計室への出入り権限を明文化してください。倉庫、城門、補給隊、税庫、どこでも記録の閲覧を認めること。あと、脚の折れかけた机を一つ交換してください」


少年兵が吹き出しそうになって慌てて顔を伏せた。

ルシアンはしばらく黙っていたが、やがて淡々と告げる。


「机は今日中に替えさせる。閲覧権限も出そう。ただし十日後、何も変わらなければ王都へ送り返す」


「構いません」


エリシアは即答した。

送り返されるつもりなどないけれど。


その時、部屋の隅で紙束が崩れた。

反射的に駆け寄り、エリシアは落ちた伝票をかき集める。そのうち一枚、兵糧搬入書に指が触れた。


――二十袋減らせ。どうせ誰も見ていない。

――副倉庫へ回した分は?

――記録するな。冬まで黙らせろ。


冷たい声が走る。

エリシアの瞳が細くなる。


「見ましたか」


振り向かずに言うと、ルシアンがすぐそばまで来ていた。


「何を」

「誰かが見ていないから盗めると思っている、という事実を」


彼女は伝票を持ち上げた。

日付は三週間前。灰鷹砦第一倉庫への兵糧二百袋搬入。だが、その後の在庫記録がない。


「副倉庫は、どこに」

「西側の旧倉だ」

「鍵は?」

「補給隊長と倉庫番が持つ」


エリシアは伝票を袖口へ差し込んだ。


「今夜、見に行きたいのですが」


ルシアンの目が鋭くなる。


「着いたばかりだぞ」

「だからです。記録を止める人間は、新任が来ると知れば慌てて消しに入ります」


前世で何度も見た動きだ。監査の噂が出た瞬間、急に燃える書類。急に行方不明になる帳票。急に退職する担当者。


ここでも同じなら、急いだ方がいい。


ルシアンは短く息を吐いた。

「分かった。同行する」


辺境伯自ら、と室内の全員が顔を上げる。

だが彼は意に介さない。


「お前が嘘をついていないなら、盗んでいるのは俺の兵糧だ」


当然の理屈だった。

エリシアは小さく頷く。


「では、十日の一日目を始めます」


王都で追い出されたその翌週、彼女は雪混じりの風が吹く辺境で、死んだ書類の山を前にしていた。

普通の令嬢なら絶望するのかもしれない。


けれどエリシアは、自分でも少しおかしいと思うほど胸が軽かった。


紙は嘘をつく。

人はもっと嘘をつく。

だが、どちらにも必ず痕跡が残る。


その痕跡を拾い集めるのが、自分の仕事だ。


そう考えた瞬間、王都で失ったものの痛みが、ようやく少しだけ遠のいた。

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