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婚約破棄されたので、不正会計を暴きます ~地味な書記魔法の私ですが、辺境伯領を立て直したら冷徹辺境伯がなぜか離してくれません~  作者: 小竹X


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001 断罪式で私は請求書を拾う

午後の陽が大広間の窓から斜めに差し込み、磨き抜かれた床の上をいくつもの靴が滑っていく。


淡い金糸を織り込んだ礼装。磨かれた革靴。香水と蝋燭の匂い。壁際には王都の名家が並び、中央にはこの一年の救済事業に功績のあった者たちが立っていた。


その列の一番端で、エリシア・ローウェルは背筋を伸ばしていた。


王立会計院書記官、十九歳。

男爵家の三女である彼女は、社交界で目立つ美貌も、戦場で役立つ派手な魔法も持たない。ただ、紙とインクに触れると、その記録に宿る微かな残響を読むことができた。書類がどんな意図で書かれたか、どこを削られ、どこを書き換えられたか。耳ではなく指先で聞くような、地味で面倒なだけの魔法。


ゆえに彼女は、ずっと「便利な手」として使われてきた。


「緊張しているのかい、エリシア」


隣で柔らかく笑ったのは、婚約者のセドリック・ヴァンデルだった。

財務次官の甥で、王立会計院でも将来を嘱望される若手官吏。上質な蜂蜜色の髪に、誰に向けても感じよく見える笑み。王都の令嬢たちが好むものを、彼はほとんどすべて備えていた。


少なくとも、外からはそう見える。


「いいえ。資料はすべて確認済みです」

「君は相変わらずだな。少しは愛想よくしてくれれば、私も気が楽なんだが」


言葉だけ聞けば冗談めいている。だが、彼が本気でそう思っていることを、エリシアは知っていた。

彼はいつもこうだった。彼女の書いた報告書で評価され、彼女の修正した帳簿で出世し、それでも人前では「地味で気が利かない婚約者」を軽く笑う。


今日も同じだと思っていた。


司会役の高官が一歩前に出る。


「本年の飢饉対策費および北東部災害復旧費の総括にあたり、功績者を表彰する」


拍手が起きた。

セドリックが一歩前に出る。彼の名が読み上げられる。王都近郊の堤防修繕、流通改善、各地倉庫の再編。どれも彼の功績として語られていく。


その原案の大半を夜更けまで書き直していたのはエリシアだったが、そんなことはどうでもよかった。表に立ちたいと思ったことはない。ただ、いつか正式な会計官になり、自分の裁量で正しい帳簿を守れる立場になれたらと、それだけを望んでいた。


だから、次の瞬間に自分の名が呼ばれた時も、最初は補助功労者として紹介されるのだと思った。


「同時に、飢饉対策費の帳簿改竄に関する嫌疑につき、書記官エリシア・ローウェルをここで糾問する」


大広間の空気が変わった。


ざわり、と絹が擦れる。何十人もの視線が一斉に集まる。


エリシアは瞬きを一つした。


「……嫌疑、ですか」


高官の横に立ったセドリックが、沈痛そうに眉を寄せる。


「残念だよ、エリシア。私も最後まで君を信じたかった。しかし、北東部災害復旧費の支出記録に、君の筆跡で修正された箇所がいくつも見つかった」


侍従が運んできた帳簿が開かれる。確かにそこには、彼女の手による修正があった。

誤記を正しただけの、いつもの細かな補正だ。


「修正理由欄が空白のまま数字だけが変わっている。しかも、消えた金額は小さくない。現場への支払いが滞り、復旧が遅れた一因にもなった」


さも遺憾そうに、セドリックは言う。


「私は婚約者として、彼女を庇うべき立場にある。しかし王国に仕える官吏として、不正を見過ごすことはできない」


嘘だ。


その一言が、喉元まで出かかった。

だが、言葉より先に一枚の請求書が風に煽られて床へ落ちた。


誰かが慌てて拾おうとしたそれを、エリシアの指先が先に捉える。


ざらり、と紙の繊維が触れた。


――書き直せ。差額は別口だ。

――だが、現場の支払いが。

――黙れ。印はあとでセドリック様が通す。


頭の奥に、他人の声が流れ込む。


同時に、まるで堰が切れたように別の記憶が押し寄せてきた。

蛍光灯。コピー機の熱。安い缶コーヒーの苦味。終電を逃し、庁舎の仮眠室でうずくまった夜。日本という国の地方自治体で、契約と監査の補助をしていた二十八歳の自分。期限前の伝票を抱えたまま机に突っ伏し、そのまま二度と起きなかった、冴えない前世。


(……ああ)


息を吸う。


(そう。私、また会計の仕事をしていたのね)


目の前の豪奢な大広間が、急に奇妙なくらいはっきり見えた。

この状況も、似たようなものだ。実務を押しつけられ、責任だけを回される。誰かが都合よく書類をいじり、最後に一番弱い立場の人間へ被せる。

前世でも見た。嫌というほど、見た。


ならば、慌てる必要はない。


「弁明はあるか、エリシア・ローウェル」


高官に問われ、エリシアは請求書を見下ろしたまま静かに口を開いた。


「はい。まず一点、この請求書は正式支払いの帳票ではありません。現場控えです。これがここにある時点で、原本の管理手順が破綻しています」


ざわめきが少しだけ止まる。


「二点目。問題とされた修正は、私が単独で行ったものではありません。修正前後の数字の筆圧、乾き方、余白の圧痕が一致しておりません。少なくとも、後から別の手が入っています」


セドリックの笑みが、ほんのわずかに固まった。


「負け惜しみはやめたまえ」

「では、修正理由欄が空白のまま承認印だけ通っている理由をご説明いただけますか。ヴァンデル補佐官」


大広間がしんとする。


エリシアは請求書を掲げた。


「現場からの正規請求額と、会計院保管の帳簿上の支払い額に差がございます。差額分の未払い金が発生しているはずです。支払い停止の判断を下した方の確認をお願いしたいのですが」


高官たちが顔を見合わせた。


セドリックが一歩踏み出す。

「問題をすり替えるな、エリシア。君の不正が消えるわけではない」

「いいえ、消えません。誰の不正であっても」


自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「ですが、ここで重要なのは、私を罰することではなく、未払い分を現場へ戻すことです。堤防が未修繕のままなら、次の雨季で人が死にます」


その言葉に、一部の貴族が露骨に眉をひそめた。

大広間でそんな現場の話をすること自体が無粋だ、とでも言いたげに。


エリシアはそこで理解した。

今日ここに真実を求めている人間は少ない。

必要なのは、都合のいい犯人だけだ。


ならば、ここで戦う価値は薄い。


「……なるほど」


国王名代として座していた第一王子アルノルトが、ゆっくりと口を開いた。

「未払いの有無については別途調べよう。だが、疑惑の中心にお前がいることは変わらぬ。王立会計院に留め置くには相応しくない」


欲しかったのは、その言葉なのだろう。

セドリックが痛ましげに目を伏せる。


「エリシア。君との婚約は、ここで解消させてもらう。私もこれ以上は庇いきれない」


同情のため息が周囲から漏れた。

婚約破棄。

若い令嬢にとっては、社交界での死刑宣告に等しい。普通なら泣き崩れてもおかしくない。


だがエリシアの胸に浮かんだのは、解放感に近い感情だった。


(庇う、ですって)


彼に渡した草案。徹夜で整えた予算書。指を痛めるほど写し続けた報告書。

庇われた覚えなど、一度もない。


「かしこまりました」


エリシアは一礼した。


「婚約解消、謹んでお受けします」


さすがに予想外だったのだろう。セドリックの目が大きく見開かれる。


「……は?」


「あわせて異動命令も拝受いたします。処分先は、どちらでしょうか」


第一王子が、面白いものを見るように片眉を上げた。


「北西国境、グレイフォード辺境伯領。欠員の出た辺境会計室へ送る。寒村と砦しかない土地だ。お前には相応しかろう」


王都の人々がわずかに顔をしかめる。

灰と雪の辺境。戦費ばかり食い、見返りは少ないと陰口を叩かれる場所。


けれどエリシアは、そこで初めてほんの少しだけ笑った。


「承知しました」


王都から離れられる。

セドリックからも、第一王子からも、虚栄で磨かれたこの大広間からも。

それに何より、現場に近い。帳簿の向こうで本当に困っている人間の顔が見える場所だ。


「最後に、私物の回収をお願いしてもよろしいでしょうか」


「好きにしろ」


冷たく言い放たれ、エリシアは自分の机周りから持ち出しを許された箱を受け取る。

中には使い慣れた筆記具、予備のインク、小さな算盤、擦り切れた帳面が三冊。それから、今しがた拾い上げた未払い請求書も、さりげなく滑り込ませた。


振り返ると、セドリックが低い声で囁いた。


「強がるな、エリシア。辺境へ行けば、君は終わりだ」


「そうでしょうか」


彼女は箱を抱えたまま、真正面からその目を見た。


「少なくとも、私の仕事を横から持っていく方はいなくなります」


「なっ……」


返事を待たず、エリシアは踵を返す。

背後でざわめきが広がったが、もうどうでもよかった。


午後の陽は少し傾き、長い影が大理石の床を這っている。行き交う靴の音が、今度は妙に軽く聞こえた。


大広間の扉を抜ける直前、彼女は立ち止まる。

そして振り返りもせず、ただ事務的に告げた。


「なお、北東部災害復旧費の未払い分に関しましては、到着後すぐに一覧を作成し、正式な請求書として会計院へ送付いたします。支払い義務は消えませんので、ご留意ください」


数拍遅れて、誰かが息を呑んだ。


エリシアはそのまま廊下へ出た。

高い窓の向こう、春の空は驚くほど青い。


婚約は終わった。地位も失った。王都で築いたものはほとんど残らない。

それでも彼女の腕の中には、帳面と筆記具と、一枚の請求書がある。


それだけあれば、たぶん、やり直せる。


そうしてエリシア・ローウェルは、王都で捨てられたその日に、ようやく自分の仕事を始めることになった。

読んでくださってありがとうございます。

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