025 元婚約者の証言
セドリック・ヴァンデルは、階段の中央まで来ると一度だけ大きく息を吸った。
その顔色の悪さに、広場の空気がざわつく。以前なら彼は、視線を集める場でこそ最も整った笑みを浮かべる男だった。だが今は違う。髪は乱れ、唇は乾き、上等な外套すら借り物のように見えた。
「発言を許可する」
国王が低く告げる。
セドリックは一礼したが、その動作も精彩を欠いていた。
「まず、申し上げます」
彼は階段の上段を、次にエリシアを見た。
「先ほどまで示された黄糸台帳、修繕費付替え、消名村からの徴収、その多くに私の署名があることは事実です」
一拍、広場が静まる。
「ですが、現地確認を行ったという記録の大半は虚偽です。私は実際には見ていない」
言い切った瞬間、どよめきが走った。
王都の若手官吏が、自分の署名を虚偽だと認めたのだ。公開監査会の場で。
アルノルトが鋭く言う。
「何を口走っている、セドリック」
セドリックの肩がびくりと震える。
その反応だけで、どちらに怯えているかがはっきりした。
「私は、報告書を回されるたびに署名をしました」
絞り出すような声で続ける。
「最初は軽い修正だけだった。地方の数字は荒いから整えろ、王都提出用にまとめろと。けれど次第に、未払いを“繰越”へ、村名削除を“行政整理”へ、死者への俸給を“代理受領”へ、全部が綺麗な言葉に置き換えられていった」
「言葉を慎め」
と財務大臣バルタザール。
セドリックは一瞬たじろいだが、それでもポケットから一冊の薄い手帳を取り出した。
革表紙の、使い込まれた実務手帳だ。
「慎めと言われ続けた結果が、これです」
彼は頁を開いた。
そこには日付ごとに、誰から何の指示を受けたかが細かく記されている。表向きは備忘録だが、実質は個人用の裏帳簿だ。
「私は怖かった」
その言葉は、どこか投げやりだった。
「一度でも逆らえば外されると思っていた。王都では、席を失うのは簡単です。私には家も、立場も、将来もあった。だから見ないふりをした。見ていない書類に署名し、現地確認をしたと書き、差額を“再配分”だと信じ込もうとした」
エリシアは黙ってそれを聞いていた。
胸の内に情はなかった。けれど理解はできる。前世でも今世でも、組織が腐る時はたいていこうだ。大きな悪意より、小さな保身が積み重なって人を殺す。
「エリシア・ローウェルを利用したことも認めます」
セドリックがこちらを見る。
「彼女なら書類を直せると分かっていた。余計なことを言わず、帳尻も合わせてくれると……そう思っていた」
思っていた。
そこには後悔より、ようやく自分の醜さを他人事ではなく自分の言葉で認めた重さがあった。
「だが、違った」
セドリックは唇を噛む。
「彼女はずっと見ていた。私が見ないふりをしたものを、全部」
広場が静まったまま動かない。
今ここで必要なのは感傷ではなく、証拠の線だ。
エリシアは一歩前へ出た。
「その手帳の記述と、黄糸台帳との照合を求めます」
エドガーがすぐに動いた。監査局の官吏二名が手帳を受け取り、末尾の略号と日付を確認する。
「一致します」
エドガーが高く告げた。
「少なくとも、東区慈恵会への送金指示三件、グレイフォード北部復旧費付替え二件、死者俸給代理受領四件は、この手帳の記述と黄糸台帳の記録が整合しています」
王都の空気がさらに冷える。
国王はセドリックへ視線を据えた。
「誰の指示で動いた」
王としてではなく、答えを逃がさない問いだった。
セドリックは目を閉じた。
逃げるなら、ここが最後の機会だろう。
だが彼は逃げなかった。
「最終承認は第一王子殿下の側近、オルステン書記長を通じて。財務面の設計と中継はロヴィス財務大臣府です」
広場が爆ぜたようにざわめく。
アルノルトが激昂した。
「虚偽だ! この男は保身のために――」
「なら、これも虚偽でしょうか」
セドリックはもう一枚、畳まれた紙を取り出した。
そこには王家補助印の使用許可書が写されていた。第一王子の補助印で、村名整理と特別再配分を一括承認できる文言がある。
本来は災害時の緊急処理のための便宜だ。だが悪用すれば、王の目を通さずに大量の記録操作ができる。
国王の顔色が変わる。
「アルノルト。これは何だ」
第一王子は答えない。
代わりにバルタザールが前へ出た。
「陛下、北境の細かな管理に王印をいちいち用いていては行政が回りません。補助印の委任は、合理化のために必要でした」
「合理化のために人を消したのか」
ルシアンの声は低かった。
だが、その一言だけで広場の空気が固まる。
「消したのではない。整理したのだ」
とバルタザール。
「辺境の小村をすべて等しく扱っていては国が持たぬ。予算には限りがある。王都と主要街道を優先するのは当然の判断だ」
「サンティルの子どもが薬なしで死ぬことも、当然ですか」
エルザが杖を鳴らした。
「ベルメの橋が崩れて税だけ取られるのも、当然かい」
とハンナ。
「フォーエンが地図から消えるのも、か」
とガルド。
三人の声が重なり、広場の底を打った。
バルタザールは顔をしかめた。
貴族が“地方の声”として処理できる範囲を、三人はもう越えている。彼らは被害者であると同時に、現認人であり、消された記録の持ち主なのだ。
その瞬間だった。
高い破裂音が鳴った。
セドリックの肩口に赤い染みが広がる。広場のどこかから小型の投射具が撃たれたのだ。
「伏せろ!」
ルシアンが飛び、エドガーが進行席の机を蹴り倒して盾にする。近衛が遅れて動く頃には、ミラが階段脇の欄干へしがみつき、犯人の位置を叫んでいた。
「右の彫像裏!」
サイラスの指示で兵が駆ける。黒布の男が一人、逃げようとして取り押さえられた。
セドリックは階段へ膝をついたまま、肩を押さえて荒く息をしている。致命傷ではないが、明らかに口を封じに来た一撃だ。
エリシアは考えるより先に駆け寄っていた。
「動かないでください」
布を裂いて止血しながら、彼女は低く言う。
セドリックが呆然と見上げた。
「……助けるのか」
「証言が終わっていません」
それだけ返す。
情で助けたわけではない。ここで死なれたら、また都合よく曖昧にされる。
だがその事実が、かえって彼には何より刺さったらしい。セドリックは苦い笑いのようなものを浮かべた。
「最後まで、君の方が正しいな」
「知っていました」
わずかな笑いが、緊張し切った広場に広がった。
そして今の襲撃で、疑いはほとんど決定的になった。口封じが必要な証言だったのだと、自ら証明してしまったからだ。
セドリックは痛みに顔を歪めながら、最後の一文を絞り出した。
「財務大臣府の地下保管庫に、補助印使用簿の原本があります。消名処理の一覧も、まだ……」
そこまで言うと、ついに気を失った。
エドガーが冷えた声で宣言する。
「監査局はただちに保管庫の封鎖と原本確保を要求します」
国王は、ゆっくりと立ち上がった。
その動きだけで、階段の上段が静まり返る。
「要求ではない」
老王の声は、先ほどまでよりはっきりしていた。
「王命とする」
その瞬間、今日の天秤は完全に傾いた。




