023 王都の階段で名前を読む
王都へ入る門の前で、エリシアは一度だけ立ち止まった。
高い城壁。磨かれた石畳。整然と並ぶ衛兵。春の陽に照らされた塔は美しい。何も知らなければ、ここが国の中心だと素直に信じられるだろう。
だがエリシアにとっては、帳簿の上だけ綺麗に整えられた場所にしか見えなかった。
「顔、怖いですよ」
ミラに小声で言われ、深呼吸する。
「そうでしょうね」
検問では、エドガーの通行札が効いた。
監査局特例の赤印を見た衛兵は露骨に眉をひそめたが、止めはしない。第一王子名でエリシアの立入は禁止されていたはずだ。にもかかわらず通れてしまうのは、命令同士がぶつかると現場が弱い方へ従う、いかにも役所らしい構造のせいだった。
「あなた、本当に役所向きですね」
エルザが皮肉混じりに言う。
「褒め言葉として受け取ります」
王宮前広場には、すでに人が集まり始めていた。
公開監査会と銘打たれたせいで、貴族だけでなく商人、役人、記者まがいの書き手まで集まっている。階段の上には第一王子側の近衛と、王直属の近衛が別々に並び、空気がぎすぎすしていた。
ルシアンは上段にいた。
王都滞在のせいか軍装ではなく礼装だが、顔つきは白鐘の夜と変わらない。こちらを見つけた瞬間、その目にほんの一瞬だけ強い安堵が差した。
それだけで、喉の奥が少し熱くなる。
「来たか」
階段の途中まで降りてきたエドガーが、平然とした顔で言う。
「五分で始まります。その前に、できれば騒ぎを起こさないでください」
「それは難しい相談です」
エリシアが答えた時、上段から嫌味な声が降ってきた。
「誰の許しで、そこにいる」
第一王子アルノルトだった。
以前大広間で見た時より、やつれて見える。だが目つきの険しさは増していた。
「立入は禁止したはずだぞ、エリシア・ローウェル」
広場がしんとする。
王子が直々に名指ししたのだ。皆、次の言葉を待っている。
エリシアは階段の下で一礼した。
「監査局特例通行札に基づき、公開監査会の証人として参りました」
「証人?」
アルノルトが見下ろす。
「そんな辺境の民がか」
その“そんな”で、後ろに立つハンナの眉が跳ねた。エルザは杖を握り、ガルドは無表情のまま一歩前へ出る。
エリシアは静かに台帳を開いた。
「はい。辺境の民です。そして、記録から消されていた民でもあります」
階段の下で読んでしまおう、とその瞬間に決めた。
会が始まるのを待っていたら、形式に飲まれる。先に空気を変える必要がある。
「ベルメ村、ハンナ・ベルメ」
名前を読み上げる。
ハンナが前へ出て、村印を掲げた。
「フォーエン村、ガルド・フォーエン」
「サンティル旧村、エルザ・サンティル」
名前が階段へ、広場へ、王都の空へ響く。
ざわめきが広がる。記録から消えたはずの村。そこに実際の人間が立ち、印を持ち、声を持っている。
「何の真似だ」
アルノルトが苛立った声を上げる。
「公開記録です」
エリシアは続けた。
「この三村は、税だけを取り立てられ、補助と保護の記録から外されていました。補遺二に基づき、現認人としてここに立っています。公開監査会の前提条件は満たされました」
ざわめきはもう止まらない。
商人が隣へ囁き、記録係が慌てて筆を走らせ、役人たちが顔を見合わせる。
そして、その階段の最上段に、もう一つ新しい動きがあった。
王が出てきたのだ。
老いた国王は、侍従に支えられながらも自分の足で階段上へ立った。普段は病を理由に公の場へあまり出ない人物だと聞いていたが、今回ばかりは無視できなかったのだろう。
「……名を、もう一度」
しわがれた声が降りてくる。
エリシアは驚いたが、すぐに姿勢を正した。
「ベルメ村、ハンナ・ベルメ」
「フォーエン村、ガルド・フォーエン」
「サンティル旧村、エルザ・サンティル」
国王はゆっくりと目を閉じた。
その顔には、少なくとも無関心はなかった。
アルノルトが何か言いかけるより早く、ルシアンが一歩前へ出る。
「陛下。公開監査会を、予定通りここで」
王は頷いた。
「始めよう」
その一言で、階段の上も下も完全に逆転した。
追い返されるはずだったエリシアたちは、いまや公開監査会の中心になっている。
エドガーが小さく囁く。
「あなた、本当に騒ぎを起こしましたね」
「控えめにしたつもりでした」
「監査局に欲しい逸材です」
「以前も伺いました」
そんなやりとりをしている間にも、広場の熱は増していく。
王都の階段で、消された名前が読まれた。
その事実だけで、もう後戻りは難しい。
そしてエリシアは知っていた。
ここから先は、紙と声と署名で王都を削る時間だと。




