022 暁の署名
王都へ向かう前の最後の朝、エリシアはフォーエンの集会小屋で新しい台帳を開いた。
表紙には、まだ題もない。
盟約台帳でも、税帳でも、村帳でもない。だが今からここへ書くものは、そのどれでもあるはずだった。
「名前を」
エリシアが言うと、最初に前へ出たのはハンナだった。
ベルメ村代表、ハンナ・ベルメ。
彼女はそう名乗り、自分の名と村の印を押した。続いてガルド・フォーエン、そしてサンティル旧村長代理としてエルザ・サンティル。
三つの村名が並ぶ。
消されたはずの名が、朝の冷たい光の中であっさりと紙へ戻った。
「これで何が変わるんだい」
エルザが問う。
「すぐには全部変わりません」
エリシアは正直に答えた。
「でも、ここにあるのは皆さんが生きていて、納めて、失って、なお残っているという記録です。王都でどう言われても、まずこれが土台になります」
「土台、ね」
ハンナは苦笑したが、否定はしなかった。
村の印が足りない分は、補助的に個人署名と拇印を集めることにした。ベルメの養蜂家、フォーエンの猟師、サンティルの薬草師、負傷兵の家族、橋修繕をした者、薬が届かず死んだ者の遺族。書ける者は署名し、書けない者は印を押す。
その数が増えるにつれ、小屋の空気が変わっていく。
ただの嘆願書ではない。自分たちの手で起こす、初めての“公開された記録”だと、皆が少しずつ理解し始めていた。
エリシアは書きながら、一人ひとりの名を声に出して確認した。
「マルタ・ベルメ」
「はい」
「ヨゼフ・フォーエン」
「ここだ」
「リナ・サンティル」
「……ええ」
名前を呼ぶたび、返事が返る。
それだけのことが、どうしてこんなに重いのだろう。
日が昇り切る頃、最後の頁へルシアンの写し印と、グレイフォード領会計室の認証欄を記した。正式な辺境伯印は王都にある。だが補遺二には、現認と仮記録が残っていれば再審開始の前提を満たすとある。
「あとは王都で王の印を取るだけです」
そう言った瞬間、外からざわめきが起きた。
ミラが飛び出し、すぐに戻ってくる。
「霧が、薄い!」
全員で外へ出た。
たしかに、谷を覆っていた白い霧が、朝日を浴びて少しずつほどけていた。遠くの尾根線が見える。昨日まで輪郭を失っていた石橋も、その向こうの獣道も、今ははっきりしている。
「そんなこと、あるのかい」
ハンナが呆然と呟く。
あるのだろう。少なくともこの世界では。
消された名が記録へ戻り、しかもそれが人々の立会いのもとで行われた。結界が完全ではなくとも、何かが応じたのだ。
同時に、見張りから別の報告が入る。
「北の霧の向こう、獣影が引いていきます!」
歓声は上がらなかった。
皆、半信半疑のまま空気の変化を確かめている。
だがエリシアには十分だった。理屈が繋がる。盟約はまだ死んでいない。
「急ぎましょう」
彼女は台帳を抱えた。
「今なら王都までの道も開きます」
エドガーが用意してくれていたらしい通行許可札が、二番監視所まで届けられていた。監査局の特例文言つきで、通常の検問を素通りできる。
皮肉なことに、王都の形式主義が、今度は味方になる。
出立前、ハンナが小さな革袋を差し出してきた。中には蜂蜜携行菓子がぎっしり詰まっている。
「道中で配りな」
「売り物では」
「広告だよ」
にやりと笑う顔に、ようやく余裕が見えた。
エルザは杖を持ち、ガルドはフォーエンの印箱を懐へしまう。トマとレオ兄妹は道案内兼護衛として同行を買って出た。ミラは最初から当然のように荷を背負っている。
「人数、多くないですか」
エリシアが言うと、サイラスが肩をすくめた。
「証言は多い方がいい。あと、食事時が賑やかになる」
王都へ向かう一行としては、少々騒がしい。
だが、悪くなかった。消された村が、自分の足で王都へ戻る。その形としては、むしろ正しい気がする。
馬を進める直前、エリシアは新しい台帳へ題を書き込んだ。
“北境公開記録帳”
税のためだけでも、王家のためだけでもない。人前で読まれ、人前で直されるための帳簿。
いつかこの形を、砦の会計室にも持ち帰りたい。
朝日が高くなるにつれ、霧はさらにほどけていった。
折られていた北が、少しずつ開いていく。
その先に王都がある。
今度は追い出されるためではない。消された名前を、正面から叩きつけるために行くのだ。




