020 銀爪の襲撃と甘い携行食
フォーエンへの道は、ベルメよりさらに険しかった。
ハンナがつけてくれた案内役は、年の離れた兄妹だった。兄のレオは無口で、妹のイナは必要な時だけ的確に喋る。二人とも山道を歩く足取りが軽く、エリシアたちが地図を確かめている間に、先の倒木を片づけてしまうほどだ。
「正式図にない道って、こんなにあるんですね」
ミラが感心すると、イナが肩をすくめた。
「正式図に載ったら困る人がいたんでしょ」
子どもの年で、その言い方をする。
それだけベルメやフォーエンにとって、王都の“整理”は身近な傷だったのだろう。
昼休みに、ベルメから持たせてもらった蜂蜜入りの携行菓子を配る。
粗い小麦粉と砕いた木の実を蜜で固めたもので、甘さは控えめだが腹持ちがいい。
「美味しい……」
ミラが目を丸くする。
「これ、砦でも作れないかな」
「量産できれば、見張り交代の携行食に向きますね」
エリシアは真面目に計算し始めた。蜂蜜の納入量と穀粉の配分、鍋数、保存日数。もはや職業病である。
「敵が来るまでに売り出しそうですね」
とサイラス。
「いいことです」
本気でそう思う。戦も復旧も、人が食べていなければ始まらない。
だが、その“敵が来るまで”は思ったより早かった。
午後、狭い尾根道を進んでいた時、前方のレオが突然身を伏せた。
同時に矢が一本、後方の木へ突き立つ。
「伏せろ!」
サイラスの声とほぼ同時に、谷の向こうから銀爪の群れが飛び出した。昨日の個体より一回り大きい。しかも背に粗末な革具をつけている。自然発生の魔物ではない。誰かが誘導している。
「人が乗ってる!」
トマが叫ぶ。
たしかに、一体の背には黒布で顔を隠した小柄な人影があった。
結界が薄れ、獣が入り、それを人が使っている。
最悪の組み合わせだ。
道は狭い。正面から受ければ押し切られる。
エリシアは反射的に周囲を見る。蜂蜜携行菓子、燻煙用の火打ち、馬の荷、尾根の風向き。
「蜂蜜菓子を投げて!」
「はあ!?」
とミラ。
「谷側へまとめて!」
銀爪は甘い匂いに反応する。昨日の蜂箱と同じだ。うまくいけば群れの進路をずらせる。
半信半疑ながらも、ミラとトマが袋を開けて菓子を谷側へ投げる。サイラスは同時に火打石で燻煙布へ火をつけた。
甘い匂いと煙が風下へ流れ、先頭の銀爪二体がそちらへ逸れる。
「今!」
サイラスの号令で矢が飛び、護衛兵の槍が続く。尾根道の真ん中を塞いでいた大きな一体の翼へ矢が刺さり、体勢が崩れた。
だが背に乗っていた黒布の人影は器用に飛び降り、こちらへ短弓を向ける。
狙われたのはエリシアだった。
咄嗟に身をかがめたが、矢は肩をかすめた。熱い痛みが走る。
次の瞬間、横からレオが飛び込み、相手の腕を山刀で払った。
「この人を落とされたら終わる!」
珍しく声を荒げるレオに、エリシアは一瞬だけ目を見開く。
そうか。自分は今、帳簿を持っているだけではない。村を王都へ繋ぐ線そのものとして見られている。
尾根道の戦いは短く、凶悪だった。
黒布の襲撃者は一人を取り逃がし、一人をサイラスが組み伏せた。銀爪は二体を仕留め、残りは霧の中へ散った。
だがこちらも無傷ではない。護衛兵の一人が足を裂かれ、トマの腕にも深い傷がある。
「止血を」
エリシアは自分の肩より先に、トマへ薬布を当てた。
二番監視所で足りていなかった薬箱の中身が、こういう時に響く。包帯は足りる。だが痛み止めと消毒酒が心許ない。
「フォーエンまで急ぎます」
サイラスが唇を引き結ぶ。
「追手がまた来る前に」
捕らえた黒布の男を調べると、懐から出てきたのは王都の金ではなく、北方の小領の硬貨だった。表向きは国境外の盗賊に見せかけたいのだろう。だが鞍具の紐には、見覚えのある黄糸が使われていた。
「ここまで来ますか」
エリシアは低く呟いた。
王都の不正を辿れば、敵は帳簿だけでなく獣と刃を寄越す。
それでも、不思議と後悔はなかった。
前世なら、こんな目に遭う前に潰れていた気がする。だが今は違う。痛くて、怖くて、息が荒くても、隣に人がいる。帳簿を読んでくれる人も、実際に戦ってくれる人も。
日暮れぎりぎりで、ようやくフォーエンへ着いた。
森の奥に築かれた移設村は、ベルメよりさらに慎重だった。見張り台から弓が向き、子どもたちは家へ押し込まれる。
「ベルメからの使いだ!」
とイナが叫ぶ。
しばらくして現れたのは、片脚を引きずる中年の男だった。名をガルド・フォーエンという。かつてサンティルから逃れてきた一人でもあるらしい。
彼は負傷したトマと護衛兵を見るなり、眉を寄せた。
「何を連れてきた」
「王都の尻拭いです」
エリシアが答えると、ガルドは険しい顔のままこちらを見た。
「上等だ。だが、うちはもう王都に期待していない」
「期待していただかなくて結構です」
肩の傷がずきずき痛むが、声は落とさない。
「その代わり、ここへ来る途中で銀爪に襲われました。結界がさらに薄くなっています。今、名前を戻さなければ、次は村そのものが食われます」
ガルドの表情がわずかに揺れた。
エリシアは最後の手札として、ベルメの携行菓子を差し出した。
「これはベルメからです。道中で使えと」
甘い匂いが、冷えた空気にふわりと溶ける。
ガルドはそれを見て、長く息を吐いた。
「……中で話せ」
ようやく扉が開いた。
フォーエンには、サンティルの生き残りもいた。
その中に、盟約台帳へ署名した旧サンティル村長の娘、エルザがまだ生きているという。
ここまで来れば、必要な声は揃うかもしれない。
ただし、その声を王都へ連れていけるかどうかは、また別の問題だった。
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