019 消えた村のひとびと
銀の爪を持つ影は、完全な魔物というより飢えた鳥獣に近かった。
翼は大きいが骨ばっており、嘴の縁と前脚の爪だけが異様に銀色に光る。数は五体。結界の薄い山側から滑り込むように現れ、蜂箱と家畜小屋を狙って急降下してきた。
「子どもを家へ!」
ハンナの怒声が飛ぶ。
マルタたち村人が散り、サイラスと護衛兵が前へ出る。トマは猟弓を構え、ミラは半泣きになりながらも子どもを一人引き寄せた。
エリシアに剣はない。だから彼女は即座に別のものを数えた。
子どもの数、避難できる家の数、蜂箱の位置、火のついた燻煙壺、そして道幅。
「蜂箱を倒さないでください!」
思わず叫ぶと、マルタがぎょっとした顔で振り返る。
「は?」
「蜂が散ったら収拾がつきません! 燻煙壺を二つ、谷側へ!」
銀爪の獣は光物と甘い匂いに寄る。蜂蜜を狙うなら、逆に燻煙で誘導できるかもしれない。
ハンナは一瞬だけ迷い、それでも即座に二人へ指示を飛ばした。
燻煙が谷側へ濃く流れる。銀爪の一体が煙に引かれて方向を変えた。その隙にサイラスの剣が閃き、前脚を深く裂く。別の一体は護衛兵の槍を弾き飛ばしたが、トマの矢が翼の付け根へ突き立った。
「今です、左へ!」
エリシアは子どもたちの避難路を示す。
蜂箱の列と石垣の間、最も空いている道へ流す。ミラが泣きそうな声で「こっち、こっち!」と叫び、村の子を押し込むように走らせた。
銀爪のもう一体が低空で突っ込んできた瞬間、ハンナが投げた燻煙壺が嘴に当たり、灰が広がる。獣は嫌がるように鳴き、進路を逸らした。
数分にも満たない襲撃だったが、終わった頃には全員が息を切らしていた。
二体を仕留め、三体は霧の向こうへ逃げた。蜂箱は三つ壊れ、山羊が二頭やられたが、人の死者は出ていない。
「……本当に、蜂箱を守った」
マルタが呆然と呟く。
「蜜がなければ冬を越せませんから」
エリシアも肩で息をしながら答えた。
実際には半分勘だったが、当たってよかった。
ハンナはしばらく無言で銀爪の死骸を見下ろし、やがてエリシアへ向き直った。
「村へ入りな」
ようやく、招き入れる言い方になった。
ベルメの集会小屋は、壁一面に蜂巣の乾燥板が下がる、甘い匂いのする場所だった。火鉢が焚かれ、温めた薄蜜湯が配られる。
外での緊張が解けると、ミラは今さら震え始め、トマは「心臓が口から出るかと思った」と床へ寝転んだ。
ハンナは古い木箱を改めて開き、そこから一冊の村帳を取り出した。
ベルメ独自の納入控えだ。紙は粗末だが、数字は丁寧に残されている。
「王都の帳簿より、こっちの方がよほど綺麗ですね」
エリシアが思わず言うと、ハンナは鼻を鳴らした。
「食えなくなったら困るからね」
その一言に尽きる。
生きるための帳簿は、だいたい正確だ。
夜までかけて照合すると、黄糸台帳の納入量はベルメ村帳より三割ほど低く書かれていた。差額分がそのままどこかへ抜かれていたのだろう。さらに補助金欄には、実際には一度も受け取っていない冬季薬資と橋修繕費が“支給済”として計上されていた。
「サンティルは?」
エリシアが尋ねると、集会小屋の空気が少しだけ重くなる。
ハンナが答えた。
「薬草谷の村だ。十年前の熱病で人が減った。薬が来るはずだったのに来なかった。何家族かはこっちへ流れたけど、村としては潰れたよ」
ルシアンの母の話が、胸の内側で繋がる。
薬資は予定通りだったのに、届かなかった年。消名対象に近いから後回しにされた監視所。サンティルも同じ理屈で見捨てられたのだ。
「フォーエンは?」
「まだある」
今度はマルタが答えた。
「峠の手前の森に移った。昔の場所じゃ冬を越せなくなったから。でも、王都に知られるのを嫌ってる。ベルメ以上に」
「会ってもらえますか」
「難しいね」
ハンナが率直に言う。
「フォーエンの連中は“名前を戻してもまた使われるだけ”って思ってる。サンティルの生き残りもいるけど、王都なんて聞いたら顔をしかめるよ」
当然だ。紙の上で殺されかけた人間に、もう一度その紙を信じろと言うのは簡単ではない。
「それでも会いたいです」
エリシアは頭を下げた。
「私一人の証拠では足りません。皆さんの言葉と、皆さんの名前が必要です」
ハンナは黙って彼女を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「明日、案内を出す」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。行った先で追い返されるかもしれないよ」
「その時はその時で、記録します」
少しだけ、集会小屋に笑いが戻った。
夜更け、皆が寝静まったあとも、エリシアは火鉢のそばで村帳の写しを続けていた。
ハンナが湯を持ってきて、向かいへ腰を下ろす。
「書くのが好きなのかい」
「好きというより、落ち着きます」
「変わってる」
「よく言われます」
ハンナは少しだけ口元を緩めた。
「祖父も同じことを言ってたよ。名前を残すのは意地だってね。国が忘れても、こっちが忘れなければ、いつか戻れるって」
エリシアは手を止めた。
「素敵な方ですね」
「頑固だっただけさ」
そう言いながら、ハンナは木箱の底からもう一つ包みを出した。中には小さな村印と、古い嘆願書の束がある。どれも宛先は王都。返事のないまま折り返され、端が擦り切れていた。
「これも持っていきな」
「いいのですか」
「どうせ私らが持ってても、ただの腹立たしい紙だ」
腹立たしい紙。
それを武器へ変えたいと思う。
前世でできなかった分まで、今度こそ。
外では霧の向こうで見張り鐘が一度だけ鳴った。
まだ安全ではない。結界は薄いままだ。
それでもベルメの人々は、今夜だけはエリシアたちを村の中に泊めてくれた。
完全な信頼ではない。だが、“消えた村のひとびと”が、ようやく輪郭を持ってこちらに触れてきた。
次はフォーエンだ。
そこにサンティルの生き残りもいるなら、再審へ必要な声が揃うかもしれない。




