018 折られた北へ
北へ伸びる旧山羊道は、人が歩くために作られた道ではなかった。
幅は狭く、片側は崖、もう片側は霧に呑まれた斜面。馬を降りて引かなければ進めない箇所も多い。正式図から外されたせいで手入れもされず、ところどころ倒木や崩れた石橋が道を塞いでいた。
「本当にこの先に村があるんですか」
ミラが不安そうに言う。
彼女の靴は泥だらけで、いつもの勢いも少し削がれていた。
「原図にはあります」
エリシアは答えながら、折り目の入った縮写地図を広げる。
原図どおりに開くと、正式図にはない小さな道が現れる。古い蜂の記号、湧水印、崩れた祠。人が見なくなっただけで、地形そのものは消えない。
問題は、霧が濃すぎることだった。
昼間だというのに、数歩先の木立が輪郭を失っている。音も吸われるようで、馬の鼻息と荷具の軋みだけがやけに近い。
「止まって」
エリシアは道端の古い里程標に触れた。
苔むした石柱はほとんど読めなくなっていたが、残響は残る。
――ベルメまで一里半。
――春の蜂は早い。急げ。
「右です」
「見えるのか?」
とサイラス。
「いえ、聞こえます」
地味な魔法でよかった、とこういう時だけは思う。紙だけでなく石や木にも、使われた記憶の名残はある。正式図から消されても、道そのものが“ここを通っていた”ことは覚えている。
しばらく進むと、霧の中から蜂の羽音が聞こえた。
一匹ではない。群れだ。
ミラが悲鳴を上げかけたが、トマが慌てて止める。
「待って、野生蜂じゃない。飼われてる音だ」
ほどなくして、木々の隙間に柵が見えた。低い石垣と、蜂箱の並ぶ斜面。さらにその奥、斜面に沿って建てられた小さな家々。煙突から細い煙が上がっている。
ベルメ村だった。
消えていなかった。
ただ、驚くほど静かだった。人の気配はあるのに、こちらを見て姿を隠す者ばかり。歓迎どころか、明らかな警戒だ。
「止まってください」
最初に姿を見せたのは、弓を持った若い女だった。蜂蜜色の髪をきつく編み、目は冷たい。
その後ろに男たちが三人、さらに年配の女が一人。年配の女が村長役らしい。
「ここはベルメです。王都の道ではありません」
「知っています」
とエリシア。
「だから来ました。あなた方の名前が帳簿から消されているからです」
若い女の目が険しくなる。
「消したのはそっちでしょう」
正論である。
エリシアは反論しなかった。代わりに荷袋から原図の写しと、盟約補遺二の写しを取り出して見せる。
「私は消した側ではありません。戻したい側です」
年配の女が一歩前へ出た。
肌は日に焼け、手は硬い。だが視線は揺れない。
「名を聞こうか、役人さん」
「エリシア・ローウェル。グレイフォード領会計長補佐、臨時民政記録官です」
「肩書きが長いね」
「最近増えました」
思わずそう返すと、後ろでミラが小さく咳払いした。
緊張感を壊している場合ではない。
年配の女は名乗った。ハンナ・ベルメ。村の取りまとめ役で、かつて盟約台帳に署名した村長の孫娘だという。
「戻したいと言うなら、何を持ってきた」
「あなた方が納めたはずの蜂蜜税の記録と、支払われなかった補助金の跡です」
エリシアは黄糸台帳の写しを開いた。
ベルメの名が隠された納入額、養蜂ギルド経由の送金、消えた備蓄支給欄。並べて見せると、村人たちの顔色が変わる。
ハンナだけは表情を崩さなかったが、声が少しだけ低くなった。
「それを今さら見せて、どうしろと」
「王都で再審を起こします」
「王都で」
嘲るような笑いが、誰かの喉から漏れた。
「何年、私たちが手紙を送ったと思ってるんだ」
「冬の薬も、崩れた橋も、税だけ取って誰も来なかった」
「今さら名を戻して、また吸い上げる気か」
恨みは当然だった。
紙の上では数行でも、ここでは十年分の冬と病と飢えなのだ。
エリシアは一つ息を吸った。
「信じてもらえなくて構いません」
ざわめきが少し止まる。
「でも、証拠だけは受け取ってください。そしてこの記録に、違うところがあれば教えてください。帳簿が間違っているなら直します」
「直してどうなる」
「あなた方の名前が戻ります」
それだけ言い切った。
名前が戻る。
たったそれだけのことが、どれだけ重いか、ここに来るまで想像しきれていなかった。
ハンナはしばらく黙っていたが、やがて弓を持った若い女へ顎をしゃくる。
「マルタ、資料を見な」
マルタと呼ばれた女が近づき、エリシアの持つ写しを覗き込んだ。彼女は数字にも文字にも強いらしく、数頁めくっただけで眉を寄せる。
「これ、納入量が少なく書かれてる。秋蜜の樽はこの倍あった」
「やはり」
エリシアはその場で修正欄を作る。
マルタが数字を口にし、ノエルが控える。ハンナは途中から無言で家へ戻り、古びた木箱を抱えて戻ってきた。
中には、湿気で波打った請求控えと、ベルメ村の古い印、送り返されたままの陳情書束があった。
「燃やすつもりだった」
ハンナがぶっきらぼうに言う。
「でも燃やせなかった。うちの祖父が、名前だけは残せと言って死んだから」
エリシアはその紙束を受け取り、胸がきゅっと縮むのを感じた。
燃やされずに残った紙は、諦めの中の最後の抵抗だ。
「預かっても?」
「写すだけなら」
完全な信頼ではない。それでも一歩だ。
夕方になる頃、ベルメの外れで鐘のような甲高い音が響いた。
蜂ではない。見張り台からの警戒音だ。
トマが顔色を変える。
「谷の向こうだ。何か来る」
サイラスが剣へ手をかけた。霧の向こうで、金属が擦れるような高い鳴き声が重なる。
銀の爪を持つ、鳥のような影がいくつも飛んだ。
「魔物……!」
誰かが叫ぶ。
結界が薄い。だからここまで入ってきたのだ。
ハンナが反射的に子どもたちの方を見た。
エリシアはその視線で悟る。今ここで村が襲われれば、“王都へ証人として来るかどうか”の話以前に、人が死ぬ。
ならば先に守るしかない。
帳簿を戻すのも、名前を戻すのも、その後だ。




