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婚約破棄されたので、不正会計を暴きます ~地味な書記魔法の私ですが、辺境伯領を立て直したら冷徹辺境伯がなぜか離してくれません~  作者: 小竹X


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017 遠い戦報と近い飢え

北へ向かう準備は、旅支度というより小さな出征に近かった。


消えた村を探しに行くだけなら、身軽な方がいい。だが今の北部では霧が濃く、監視所の連絡も切れ、いつ何が起きてもおかしくない。食料、水袋、予備の外套、記録用紙、簡易印、補遺二の写し、原図の縮写、さらに応急薬と携行灯。必要なものを削っていくほど、不安が浮き彫りになってくる。


「積みすぎると馬がへばります」


ノエルが言う。


「削りすぎると私たちがへばります」


エリシアが返すと、彼は困ったように笑った。


結局、同行はエリシア、ミラ、サイラス、護衛兵二名、地元案内役として若い猟師のトマ。トマは二番監視所の近くで育ったらしく、正式図にない山道をいくつか知っているという。


「でもベルメの人たちは、よそ者を嫌います」


彼は出発前にそう念を押した。


「そもそも、まだベルメがあると思ってる人間が少ないんです。昔は蜂で食ってたけど、王都の役人が来なくなってから道も荒れて、霧も濃くなって……」


言葉の最後が少し曇る。

彼自身、半分は伝説を辿る気分なのだろう。


砦を発って二時間ほどで、最初の異変に出会った。

旧街道脇の休憩小屋に、兵士の家族らしい母子が三組、肩を寄せ合っていたのだ。馬車の車輪が壊れ、町へ戻ることも次の集落へ進むこともできず、立ち往生しているらしい。


「食料は?」


エリシアが訊くと、母親の一人が空になった包みを見せた。


「昨日で尽きました。監視所へ夫の見舞いに行く途中だったんですけど……」


二番監視所の負傷兵家族だという。

つまり、監視所が機能していれば道中の補給小屋で最低限の食事が受け取れたはずなのに、それも止まっているのだ。


「……近い飢えだわ」


遠くの戦報や王都の権力争いより先に、こういうところから人は弱る。


エリシアはその場で荷を降ろさせた。

携行食の黒パンを半分、乾燥肉を少し、温める用の油紙包みを残す。さらに簡易証書を二枚書き、砦の会計室での引換を約束する。


「本当に換えてもらえるんですか」


不安そうに訊かれ、エリシアは銀印章を押した。


「はい。戻れたら、ですが」


「戻れなかったら?」

とミラが小声で聞く。


「その時はノエルが怒られます」


「ひどい」


それでも母親たちは少しだけ笑った。笑えるうちに食べてもらうのが大事だ。


馬を進めながら、エリシアは補給台帳へ新しく欄を作った。


“道中緊急支給”。


予定外の支出だが、予定通りにしか使えない予算など、人を守る役には立たない。


昼を過ぎる頃、二番監視所の手前で、ようやく伝令兵と合流した。

顔中煤だらけの若い兵で、目の下に隈が濃い。


「監視所は……?」


サイラスが問う。


「霧の向こうから魔物が出ました。数は多くありませんが、結界が薄くて押し返し切れない。負傷者を下げるので手一杯です」


兵は喉を鳴らして続けた。


「しかも、北へ送るはずの薬箱が届いていません。砦から来ると聞いていたのに」


エリシアとサイラスが同時に顔を見合わせる。

薬資の配給遅延。ルシアンの母が死んだ年の記録と、嫌なほど似ている。


「薬箱の納品書は?」


「ここに」


受け取った紙に触れた瞬間、残響が流れる。


――二番監視所向けは後回しにしろ。

――優先順位は。

――消名対象に近い。回しても無駄だ。


ぎり、と奥歯が鳴った。

まだ続いている。帳簿上の消名が、今も補給順を歪めている。


「トマ」


エリシアは決めた。


「ベルメへ行く前に、監視所へ寄ります。薬箱不足と負傷者数を確認したい」


「でも日が」


「無理なら明朝まで泊まります。その代わり、今夜の食事は薄くなります」


ミラが真面目な顔で頷いた。

「なら蜂蜜を早く見つけないと」


彼女なりの理屈らしい。


二番監視所は、想像以上に疲れていた。

木柵は一部が壊れ、仮設の焚き火が何か所も赤く燃えている。兵士たちは少人数で交代しながら見張りを続け、負傷者のための寝台は足りていない。


「辺境伯は?」

と隊長。


「王都です」

とサイラス。


「ああ、やっぱりそうか……」


その諦め混じりの声が重い。

ここでも王都召喚は“また補給が遅れる”と同義なのだろう。


エリシアはすぐに帳面を開いた。

負傷者数、必要薬品、残り食料、弓矢本数、見張り交代の限界時間。数字として並べると、監視所はあと三日で回らなくなる。


「補給券を切ります」


エリシアはその場で三枚の優先補給札を書いた。

色の違う糸を括りつけ、砦へ戻る者が見ても一目で分かるようにする。赤は薬、青は食料、白は担架と布。


「これ、そんなので届くんですか」

と若い兵。


「届かせます」


銀印章を押しながら答える。


前世でも、現場が一番欲しがっていたのは豪語ではなく、通る書類だった。

“届かせます”という言葉を、今度こそ空手形にしたくない。


夜は監視所で越すことになった。

兵たちの鍋に、こちらの携行食も混ぜてもらう。薄い豆のスープだが、冷えた身体には十分ありがたい。

焚き火の前でトマが呟いた。


「戦ってるっていうより、持ちこたえてるって感じですね」


「たぶんそれが一番正確です」

とエリシア。


王都で想像される戦は、剣と旗と勝利報告なのだろう。だが現実は、鍋の中身があと何杯ぶんあるか、包帯が何枚残るか、見張りが何時間持つか、その積み重ねだ。


遠い戦報は華やかに語られても、近い飢えは静かに人を削る。

そして帳簿が壊れる時、最初に崩れるのはたいてい後者だ。


眠る前、エリシアは王都から届いたルシアンの二通目の短い書簡を読み返した。


“王はまだ出てこない。第一王子は形式を盾に時間を食っている。焦るな。食わせて、数えろ”


食わせて、数えろ。

この人らしい指示だと思って、少しだけ口元が緩んだ。


翌朝、霧はさらに濃くなっていた。

監視所の北門を出ると、道は白く霞み、原図の線がなければ方角すら怪しい。


「ここから先が、折られた北です」


トマが言う。


エリシアは荷袋の中の縮写地図を確かめた。

折られたなら、開きに行く。

そのために来たのだ。

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