016 記録塔で失われた地図を繋ぐ
北部測量図を保管していた記録塔は、砦の北端、誰も使わなくなった古い見張り塔の脇にあった。
塔といっても華やかなものではない。石造りの円塔に木の増築を継ぎ足しただけの、いかにも“増えた書類をとりあえず詰め込んだ場所”である。扉を開けた瞬間、乾いた紙と古い墨の匂いが鼻を刺した。
「懐かしい匂いですね」
前世の倉庫書庫を思い出し、エリシアがぽつりと言うと、オズワルドが怪訝そうに鼻を鳴らした。
「懐かしむ趣味は理解できん」
今日は彼も同行している。さすがに地図の山を前に若手だけでは埒が明かないと判断したのだろう。ノエル、ミラ、そして地図作成を手伝っていた老測量師のマリアンまで集められ、塔の中は珍しく人が多かった。
「北部の原図は三階だよ」
マリアンは杖代わりの測量棒をつきながら階段を上る。
七十を越えているはずだが、声には張りがあった。
「ただし、途中でいくつか畳まれたまま戻されてる。まともに読もうと思ったら机を空けなきゃ無理だね」
三階の部屋には、巻かれた地図筒と折り畳まれた大判紙が山のようにあった。
窓からの光だけでは足りず、ミラが慌ててランタンを増やす。
「どれがどれだか分からない!」
「分からなくても、順番に見れば必ず減ります」
エリシアは袖をまくった。
地図の復元は帳簿より厄介だ。数字と違って、一箇所削っても全体がすぐには壊れて見えない。だからこそ悪用されやすい。
まず年代別に分け、次に地形の基準になる川筋と峠道で分類する。折り畳み方が不自然な図だけを抜き出すと、案の定、ルーン川上流部を含む原図が複数見つかった。
「ここです」
広げると、北側の端が妙に厚い。何度も折られ、しかも折り目の上から新しい紙が貼られていた。
エリシアが慎重に端を浮かせる。黄ばんだ接着剤がぱり、と音を立てた。
その下から現れたのは、消された三村の地図記号だった。
ベルメ、サンティル、フォーエン。小さな蜂の印、薬草畑の印、山羊道の印。
「本当に折って消していたんですね」
ノエルが呆然と呟く。
マリアンは苦い顔をした。
「若い頃、北を描き直せって指示が来たことがあるよ。境が変わったんだろうくらいに思っていたけどね」
「誰からの指示でしたか」
「王都経由の測量局。署名はもう忘れた」
忘れたと言いつつ、その瞳には後悔があった。
自分の描いた線が、誰かの村を消すのに使われたと知れば、そうもなるだろう。
地図へ指を触れる。
――北はここまででいい。
――ですが村道が続いています。
――続いていないことにしろ。正式図がそうなる。
乾いた残響が流れる。
「正式図の方を持ってきてください」
エリシアが言うと、ミラが駆け下りる。
待つ間、エリシアは補遺二の写しと原図を並べた。村の位置、徴税境界、備蓄路、冬季薬資の配給路線。全部が綺麗に繋がる。消された三村は、たまたま切られたのではない。上流の物流路と結界維持に関わる、要のような位置にある。
「ここを外せば」
オズワルドが低く言う。
「辺境へ流れる薬資と備蓄の理屈が丸ごと痩せる」
「そして浮いた差額を、中央で吸える」
とエリシア。
胸の奥が冷えていく。
数字のために線を折り、線のために村を消した。やっていることは静かな殺しだ。
やがてミラが新しい正式図を持って戻ってきた。
見比べれば一目瞭然だった。北部地形そのものが僅かに詰められ、三村の位置は余白に吸われるように消えている。
「ひどい」
マリアンが杖を握りしめる。
「地図ってのは、そこにあるものを残すために描くんだよ」
その一言が、エリシアの胸に深く落ちた。
本当にそうだ。帳簿も同じだ。本来は残すためのものだ。
その時、塔の下から急ぎ足の音が上がってきた。
息を切らせた連絡兵が、封書を差し出す。王都からだ。ルシアンの手紙である。
封を切る。
“出頭初日は形式論のみ。第一王子は補遺二の正本確認を要求。こちらは写しのみ提示。王は出席せず。再審を求めるなら当該村代表を連れて来いとのこと。期限十日”
十日。
短い。
さらに追記があった。
“北の霧が濃い。二番監視所と連絡途絶。戻れぬ可能性もある。だが焦るな。記録を先に集めろ”
最後の一文を読み、エリシアは唇を引き結んだ。
焦るなと言われて焦らずにいられる内容ではない。
二番監視所は、ちょうど消えた村へ向かう北道の途中にある。
「十日で村代表を見つけるしかありません」
エリシアは地図を見下ろした。
ベルメはルーン川上流、サンティルは薬草谷、フォーエンは北峠の手前。今は正式図から外れているため、道も半分しか載っていない。
「行くんですね」
とノエル。
「行きます」
「霧が濃いって書いてあるのに?」
とミラ。
「だからこそです」
霧が濃くなるのは、結界が薄くなっている証かもしれない。村がまだあるなら、もう放っておけない。
マリアンが古い測量棒で地図の端を叩いた。
「北は折られてた。だったら、こっちで折り返せばいい。正式図にない道でも、原図にはある」
彼女は三村へ向かう山羊道と旧橋を示す。細く危険な道だが、最短だ。
「明朝出ます」
エリシアが決めると、オズワルドが嫌そうな顔で頷いた。
「食料は軽く、記録具は多めに。村の名が残っているものは全部持ちなさい」
「はい」
「それから」
老人はわずかに声を落とした。
「辺境伯に会ったら伝えなさい。帳簿はまだ死んでいないと」
不器用な励ましだと分かって、エリシアは小さく笑った。
塔の窓から見える北の空は、夕方なのに白く霞んでいた。
霧は山肌を這い、まるで誰かが北をもう一度折り畳もうとしているようだった。
ならば、その折り目をこちらで開いてやる。
消された村へ、失われた道へ、帳簿からこぼれ落ちた名前を拾いに行くのだ。




