015 元婚約者は自分の署名も読めない
セドリック・ヴァンデルが砦へ現れたのは、黄糸台帳の写しが一通り揃った翌日の朝だった。
しかも、実に王都らしいタイミングで。
「王都財務大臣府臨時照会官として参りました」
城門前でそう名乗る男を見て、ミラが露骨に顔をしかめる。ノエルは何とも言えない表情でエリシアを見た。
セドリックは以前と同じ、いや以前より少しだけ整えた笑みを浮かべていた。けれどその笑みの端には焦りが滲んでいる。王都で別れた日の余裕は、もうなかった。
「お久しぶりですね、エリシア」
「そうですね」
会計室の前庭は、今日も窓口相談の机が出ている。市の日ではないが、未払い処理の確認に来た人々が十数人ほど並んでいた。
その前で再会するには、少々面白い相手だ。
「少し話がしたい」
「相談窓口なら順番をお取りください」
ミラが吹き出し、列に並んでいた鍛冶屋の親父まで肩を震わせた。
セドリックの頬が引きつる。
「そういう冗談を言い合う仲ではなかったはずだ」
「ええ。ですので冗談ではなく、業務案内です」
彼は一瞬、言葉を失った。
そして周囲に聞かれたくないのだろう、小声を作る。
「黄糸の台帳を押収したそうだね」
「そうです」
「それは王都の管理下にある資料だ。こちらへ引き渡してくれないか」
ずいぶん直球だった。
ここまで露骨だと、いっそ感心する。
「正式な引渡命令書は」
「後で出る」
「では後で対応します」
「エリシア」
名を呼ぶ声音に、昔の馴れ合いの響きを混ぜようとしているのが分かった。
だが今の彼には、もうそれを使う資格がない。
「君だって分かるだろう。こんなことを続けても、誰も幸せにならない」
列に並ぶ人々の空気が変わった。
幸せ、という曖昧な言葉で帳簿を閉じたがる人間は、たいてい現場の支払いを見ていない。
エリシアは前庭の長机へ黄糸台帳の写しを一冊置いた。
「では、確認しましょうか」
「何を」
「あなたの署名です」
セドリックの表情がこわばる。
エリシアは写しを開き、末尾の確認欄を示した。
“現地再確認済 セドリック・ヴァンデル”
「この署名はあなたのものですね」
「もちろんだ」
「では、この確認を行った日、あなたはどの村を回りましたか」
「……北部のいくつかを」
「具体名を」
「いちいち覚えているわけがないだろう」
「困りましたね」
エリシアは別の紙を出す。
「同日の王都会計院来訪記録には、あなたの押印があります。午前十時四十分、午後一時二十分、午後四時五分。少なくとも王都からここまで、半日では来られません」
列のあちこちから小さな失笑が漏れた。
セドリックが顔を赤くする。
「それは代理印だ!」
「代理印を公式記録に?」
「補佐官業務ではよくあることだ」
「現地再確認も、代理で?」
言い返せない。
エリシアはさらに資料を重ねる。
土手修繕費の承認書、蜂蜜税中継簿、幽霊俸給一覧。どれもセドリックの署名入りだ。
「あなたは随分と忙しい方ですね」
声は穏やかに、言葉は逃がさず。
「王都にいて、辺境で現地確認をして、消えた村の納入を承認し、存在しない役人へ俸給を流し、ついでに私へ清書も押しつけていた。いったい、何人いらっしゃるのですか」
今度は列の後ろから、はっきり笑い声が上がった。
セドリックは周囲を見回し、ようやく今の自分がどこに立っているか理解したらしい。ここは王都の大広間ではない。彼の見栄を支えてくれる空気など、どこにもない。
「……こんなことをしても、君の立場は良くならない」
声が低くなる。脅しと懇願の中間だ。
「むしろ悪くなるぞ。第一王子殿下も、財務大臣も、本気だ。俺は君を守ろうとしている」
その言葉に、ミラが「うわ」と素で言った。
ノエルが慌てて口を押さえる。
エリシアは少しだけ首を傾げた。
「守る?」
「そうだ」
「王都で私を切り捨てた時のようにですか」
セドリックが黙る。
「それとも、現地を見ていない報告書へ私の修正を入れさせた時のようにですか。あるいは、未払いを知りながら黙っていろと言った時のように?」
一つずつ、静かに置いていく。
怒鳴る必要はない。事実は声を荒げなくても十分に痛い。
「あなたは私を守ったことなんて一度もありません。便利に使って、最後に捨てただけです」
列の人々がしんとした。
セドリックの喉が上下する。
彼はようやく、昔の甘い言い回しを捨てた。
「……俺だって好きでやったわけじゃない。逆らえなかったんだ」
「誰に」
「第一王子殿下に決まっているだろう!」
叫んだ瞬間、本人もしまったという顔をした。
前庭にいた全員が、その言葉を聞いた。
エリシアは視線を逸らさない。
「殿下が、何に逆らうなと?」
「村名を整理しろと、余計な支払いを切れと、辺境の帳簿は王都が持つ形に合わせろと……!」
「余計な支払い、とは?」
「備蓄だの薬資だの、どうせ使い切れない金だ! 辺境に回すより中央で動かした方が効率がいい!」
そこまで言ってから、彼は完全に黙った。
顔が真っ白になっている。
前庭に並んでいた遺族の女が、小さく息を呑んだ。
鍛冶屋の親父は笑いを消し、じろりとセドリックを睨む。
効率。
その言葉一つで切り捨てられたものの中に、人の冬も、薬も、村の名前も入っていたのだ。
「記録します」
エリシアはノエルへ言った。
「はい」
震える手で、ノエルが今の発言を速記していく。
セドリックは慌てて一歩踏み出した。
「待て、今のは失言だ!」
「ええ。ですので、なおさら正確に記録します」
「エリシア!」
彼が伸ばした手を、誰かが横から払った。
ルシアンではない。西町郵便組合のクララだった。
いつの間にか前庭へ来ていたらしい。
「女性に勝手に触れないでくださる?」
氷のような声に、セドリックが一瞬怯む。
そこへ養蜂家の女たちも、遺族の女たちも、無言で一歩ずつ前へ出た。
壁になったのだ。
エリシアの前に。
王都ではありえなかった光景に、セドリックは完全に動揺した。
「……っ」
彼は何か言い返そうとしたが、結局うまく言葉にならなかったらしい。
やがて外套を翻し、逃げるように前庭を去っていった。
ミラがぽかんと口を開ける。
「負けた……」
「最初から勝負になっていません」
エリシアは資料を揃え直しながら答えた。
だが胸の奥では、遅れて熱が上がってくる。
怒りでも悔しさでもない、長い間押し込めていたものが、ようやく外へ出たあとの熱だ。
その日の夕方、セドリックが宿へ置いていった封書が届けられた。
短い文だったが、重要な一文がある。
“国王陛下は、消えた村の件を詳しくはご存じない。第一王子殿下が財務大臣と共に処理している”
保身のつもりだろう。
だが十分だった。
王は知らない。
ならば、王都で戦う余地がある。
「地図塔へ行きます」
エリシアは即座に立ち上がった。
消えた村を戻すには、位置と代表を掘り起こさなければならない。
そのための原図が、地図塔にある。
そして今のセドリックの狼狽ぶりを見る限り、向こうもまだ完全には握れていない。
追いつける。
まだ、追いつける。




