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氷河期のカフェ、無自覚な神の微笑

カフェ『エテルニテ』に現れた真白は、いつもの笑顔で扉を開けました。しかし、その背後には隠しきれない銀白の髪と、昨夜の禁忌「三戦目」の余波が影を落としています。桂奈たちが見守る中、真白が語る「三戦目の人和レンホー」という事実は、彼らの理性を凍りつかせ、店内に「蒼白い霧」を呼び寄せました。

朝の爽やかな日差しが、一翻市の街路樹を黄金色に染め上げていました。カフェ『エテルニテ』の重厚な木の扉を押し開けると、淹れたてのコーヒー豆の香りと、店内に流れる静かなボサノヴァが私を包み込みます。私は昨日までの神殿での重苦しい儀式を心の奥底に封じ込め、いつものエプロンを身に纏い、最高に明るい笑顔を浮かべました。


「おはようございます! 今日も最高のコーヒーを淹れますよ!」


しかし、その声は店内の空気を一瞬で凍りつかせました。開店前の準備中だというのに、店内の特等席には、昨日、私を禁忌の二戦目へと引きずり込んだあの二人が、まるで断罪を待つ罪人のような面持ちで座っていたからです。配信プロデューサーの桂奈、そして斎藤社長。彼らの瞳には、昨夜の神格化の余波に触れた者特有の、拭い去れない恐怖が宿っていました。


私がカウンターの内側に入ろうとしたその時、車椅子に座る礼奈が、すっと私の方へ近づいてきました。彼女の視線は、私の三つ編みに隠しきれず、わずかに覗く銀白の髪の毛束に鋭く突き刺さっています。


「……ねえ、真白ちゃん。その髪……また少し、変わった?」


礼奈の震える声に、桂奈と斎藤社長も息を呑んでこちらを凝視しました。私は自分の三つ編みに触れ、隠しようのない現実を認めざるを得ないことに苦笑しました。隠しても無駄です。彼らはもう、この街の変容の証人なのですから。


「あはは、バレちゃいましたか。これですか? 実は昨日、役満を三回も上がってしまったせいでしょうか……魂天様の『罰』が当たりましてね。ご覧の通り、左側の髪まで白髪化が進んでしまったんですよ」


私は冗談めかして言いましたが、その髪の色は、人界のどんな染料でも出せないような、神域の雪を溶かしたような透き通る白さでした。私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、桂奈が椅子から立ち上がり、信じられないという顔で駆け寄ってきました。


「……えっ、罰!? ちょっと待って真白ちゃん。お店で上がったのって、あの奇跡の十三面待ちと、その後の八連荘だけだったよね? 一戦目も二戦目も、全部合わせても二回しか役満は出てないはずだよ。あと一回って、いつ……!?」


桂奈の声が震えています。彼女は配信プロデューサーとして、数字の整合性には誰よりも厳しい。彼女の動揺は、単なる数字の確認ではありません。「お店で目撃していない、私が隠した第三の役満」の存在、それこそが、私がこの街の理を密かに書き換えているという何よりの証明だと理解しているからです。


私は自分の髪を指でなぞりながら、少しだけ寂しげな微笑みを浮かべました。魂天様との契約の代償として、私の魂の境界線が削り取られていく――そんな実感が、指先からじわじわと伝わってきます。私は、この問いかけの先に待っている「真実」を、彼らにどう伝えればいいのか、あるいは伝えずに守るべきなのか、その狭間で深く息を吐きました。


カフェの空気が、まるで真冬の氷河期のように急激に冷え込みました。カウンター越しに、私の言葉を聞いた桂奈と斎藤社長の顔から、一気に血の気が引いていくのが手に取るように分かります。


「……帰宅後、一姫さんにどうしようもなくせがまれてしまって。三戦目を付き合わされたんです。本当は、皆さんと食べる温かいシチューの仕込みを早く済ませたかったんですけれどね」


私は努めて淡々と、昨夜の出来事を語りました。その声には、人間らしい生活への愛着と、神としての無機質な諦念が奇妙な調和を保って混じり合っています。


「せっかくの夕食時でしたから……ええ、やっぱりやめるべきでしたね」


私がそう告げた瞬間、斎藤社長は椅子から転げ落ちるように膝をつき、桂奈は顔を両手で覆い、肩を激しく震わせました。彼らは理解してしまったのです。「三戦目」という禁忌を犯したという事実。そして、その行為がこの街の理をどれほど根底から揺るがし、私という存在をどれほど深く「神の領域」へと突き落としたのかを。店内の照明が、一瞬だけチカチカと不規則に瞬き、窓の外の風が止まりました。


私はそんな彼らの反応を、どこか遠い他人のことのように眺めながら、言葉を続けました。


「でも、あの一姫さんの勢いと言ったら……もう絶好調で。彼女に負けっぱなしというのも少し悔しいですし、私も少し本気を出してしまったんです。そうしたら、オーラスで偶然、人和が和了れてしまって」


あの日、神殿の冷気の中で見た一姫の形相を思い出します。彼女は猫の姿でありながら、誰よりも必死で、私を救いたいのか、それとも何かを断ち切りたいのか、わからないほどの形相で卓に向かっていました。


「……あの時のあの子、何かに取り憑かれたみたいに必死でしたよ。私を置いていかないで、と言わんばかりに。でも、人和が決まった瞬間、彼女は……」


私はそこで言葉を切りました。あとの光景は、あまりに惨いものでしたから。人和の牌を伏せた瞬間、一姫はまるで魂を抜かれたように卓の上に崩れ落ち、その後は、しばらくの間、呼吸すら忘れたかのようにピクリとも動かなくなってしまったのです。


店内の静寂は、もはや呼吸をすることも許さないほどの重圧を纏っていました。彼らが恐れているのは、私が和了った人和そのものではなく、そんな状況下でも「シチューの仕込み」という日常に固執する、私の壊れゆいた精神状態そのものなのかもしれません。


「あれ? みなさん、どうかしました?」


私が首を傾げたその瞬間、店内の空気は決定的な異変をきたしました。床下から湧き出したのは、湿り気を帯びた現実の霧などではありません。それは魂の深淵から溢れ出すような、温度を奪い去る「青白い霧」でした。霧は私の周囲を緩やかに、しかし確実に這い上がり、ブーツの裾からネイビーのスカートへと静かに浸食していきます。隠しきれない神気が、私の実存の隙間から漏れ出し、その場にいる者の理性を強制的に凍りつかせていました。


その光景を目の当たりにした三人の内面は、恐怖を通り越した絶望に支配されていました。


礼奈は車椅子の車輪を無意識に強く握りしめ、その指先が白くなるまで力を込めていました。彼女の心は悲鳴を上げています。(違う……これは私が知っている真白ちゃんじゃない。あんなに温かくて、あんなに優しかった彼女の足元が、まるで見知らぬ神域の境界線みたいに消えていく。お願い、誰か彼女を人間として繋ぎ止めて。彼女が消えてしまう……)


桂奈は配信プロデューサーとしての冷静さを完全に見失い、心臓が早鐘を打つのを感じていました。(視界が歪む……これが、この街の理を司る者のオーラ? 桁違いだわ。昨夜の八連荘の時もそうだったけど、彼女の周囲だけ物理法則が書き換わってる。彼女はもう、私たちが知っている『バイトの真白』という人間を演じきれていないんだわ。この霧が店全体を飲み込んだら、私たち自身も存在を書き換えられてしまうかもしれない)


斎藤社長は、自身の経験してきたビジネスの修羅場など無意味であることを悟り、ただ小さく震えることしかできませんでした。(これが『神格』か。彼女が口にした『人和』の正体は、この霧そのものだったのか。彼女に二戦目を強要した我々の罪は、彼女を人間から引き剥がし、この街を終焉へと追い込むトリガーになってしまったんだ……)


しかし、彼らが恐怖に硬直している間にも、霧はまるで何事もなかったかのように、私の一言とともに霧散しました。私は全くの無自覚に、ふわりと空気を払うような手つきをしました。


「……霧? なんのことですか? 皆さん、昨日の対局でずいぶんと疲れていらっしゃるみたいですね。顔色が、ひどく悪いですよ」


私は悪戯っぽく微笑み、彼らの硬直した表情を「ただの疲れ」として処理しました。その微笑みはあまりにも純粋で、それゆえに残酷でした。私の内側に渦巻く神格は、私が「日常」という言葉を発するたびに、周囲の物理法則を都合よく修正し、私の「少女としての輪郭」を再構築してしまうのです。


「さて、お店のお掃除してきますね。開店前には全部綺麗にしておかないと」


私は背中にバックパックを背負い、鼻歌混じりにカウンターの奥へと向かいました。足元にはもう霧の残滓も、神の威光もありません。ただ、ブーツが床を踏み鳴らす「カチ、カチ」という現実的な音だけが、店内の静寂を切り裂いて響きました。

三戦目の人和。それは真白にとって「一姫に勝てて少し嬉しい出来事」に過ぎませんが、世界にとっては「神の降臨」に等しい事象でした。彼女が掃除を始めるたびに、店内の汚れだけでなく、不都合な「真実」までもが浄化されていく。見守る三人にとって、今のエテルニテは最も安全で、最も恐ろしい神域となってしまいました。

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