浄化のモップ、「現実」の磨き上げ
窓を磨き上げ、達成感に瞳を輝かせる真白。しかし、彼女が「汚れ」を拭き取るたびに、店内の物理法則までもが神域の理へと書き換えられていきます。一姫を操り、禁忌の「人和」を上がらせたのは、真白自身か、それとも彼女を「神」として完成させようとする不可視の意志か。三人の常連客は、笑顔で近づいてくる彼女に、逃れられない終焉の足音を聞いていました。
残された三人は、霧が消え去った後の無機質な店内の景色を眺め、ただ魂を削り取られたかのように立ち尽くすしかありませんでした。私の姿が見えなくなった後も、彼らは私の背中から漂っていたあの冷たい神域の感覚を、自分たちの指先に深く、痛々しく刻み込まれていたのです。
店内の奥、モップで床を磨く規則正しい音が響く中、カウンターに残された三人は、互いの顔を合わせることすらできずにいた。店内に漂っていたあの青白い霧の冷気は消え失せたはずなのに、彼らの肌には、まるで氷の中に閉じ込められたかのような痺れが残っている。
「……ねえ、何なのあれ。霧? それとも私の目が悪いの?」
桂奈が震える手でスマートフォンの画面を指でなぞろうとするが、指先が強張って動かない。彼女の配信人生において、数々の怪奇現象や心霊スポットも取材してきたが、あのような「物理法則そのものが慈悲深く嘘をついている」ような感覚は初めてだった。彼女の内心は、プロデューサーとしての合理的な思考が、真白という存在を前にして完全に粉砕される恐怖で満たされていた。
「違うわ……。あれは現実じゃない。いえ、現実そのものが、あの娘の『日常』という言葉一つで書き換えられてしまったのよ」
礼奈が車椅子の肘掛けを握りしめ、青ざめた唇で呟く。彼女にとって真白は、自分の止まってしまった時間の中で唯一、未来へと手を引いてくれる希望だった。しかし、今の真白は、その希望を維持するために、人間ではない何かの「力」を代償として使いすぎている。
「斎藤社長、どうするのよ。このままじゃ……」
桂奈の問いかけに、斎藤社長は重苦しく首を振った。彼の脳裏には、先ほど真白が語った「人和」の光景と、その時の彼女の平然とした表情が焼き付いている。
「……三戦目。昨夜、彼女が帰宅した後のあの出来事だ。彼女は、一姫が……あの猫が、強制的に牌を捨てさせられたと言った。彼女の言葉を額面通りに受け取るならば、真白は自らの意志ではなく、何か……彼女の神格そのものに、一姫を操るよう命じられた可能性がある」
斎藤社長の言葉に、礼奈が鋭く反応する。
「……ええ、間違いなくそうよ。一姫ちゃんは、真白ちゃんを神格から引き離そうと必死だったはず。それなのに、強制的に人和を和了らされた。あれは、真白ちゃんがやったんじゃないわ……彼女の中に宿り始めている『何か』が、日常を邪魔するものを排除するために、一姫ちゃんの身体を無理やり利用したのよ。きっと……一姫ちゃんは、真白ちゃんの中に潜む何かに縛り付けられ、逆らうこともできずに、自分の手で真白ちゃんを神に近づける牌を捨てさせられたのね」
カウンターの上のコーヒーカップは、既に冷え切っている。三人とも、真白を深く愛し、彼女の日常を守りたいと願っているからこそ、この結論にたどり着いた時の絶望は深かった。真白は、自分を人間だと思い込もうとするあまり、自分を護ろうとする者たちを、無自覚に「自身の神格の補完パーツ」として利用し始めているのだ。
彼らは、真白が奥の窓を磨くために差し出している華奢な背中を見つめた。その背中はあまりにも美しく、窓からの光を反射して、この世の者とは思えないほど透き通っている。
「どうするって……もう、私たちは彼女を人間として扱うことさえ、許されていないんじゃないの」
桂奈が力なく笑う。今の彼女たちにできるのは、真白が「バイトの真白」として店内にいる間の、この短い安寧を守ることだけ。しかし、その安寧こそが、彼女を神へと急がせるカウントダウンであることを、三人は痛いほど理解していた。
奥の窓際で、真白はまるで世界そのものを磨き上げるかのように、静かに、そして楽しげにガラスを拭いている。その所作の一つ一つが、街の澱みを晴らし、同時に彼女自身の人間性を削り落としていくことに、彼女自身は気づいていない。
「……ねえ、もし彼女が明日、店に来なかったら。いえ、もし明日、彼女が私たちの知っている『真白』じゃなくなっていたら……」
三人の間には、重い沈黙が流れた。自分たちが引き金を引き、彼女を神格化という名の迷宮に追い込んでしまったという罪悪感。そして、何が起きようとも、彼女の隣に居続けなければならないという、逃れられない運命への覚悟。
彼らは、真白がこちらを向いて「お掃除終わりましたよ!」と明るく笑いかける未来が、どれほど残酷な幻想であるかを悟りながら、冷え切ったコーヒーに口をつけることさえできずにいた。
窓枠の隅まで丁寧に拭き上げると、私は満足げに息を吐き出しました。窓越しに差し込む光は、まるで磨き上げた鏡のように店内に降り注ぎ、ホコリ一つ見当たらない完璧な空間が完成しました。
「ふぅ……よしっ、綺麗になりました!」
私はくるりと踵を返し、カウンターで青ざめたまま固まっている三人のもとへ、いつもの明るい足取りで向かいました。その背中には、窓掃除の達成感と、一人のバイト店員としての健気さが満ち溢れています。
「礼奈さん、窓拭き終わりましたよ! お待たせしました。次はどこを掃除しましょうか? カフェのバックヤードの棚とか、それともテーブルの磨き上げの方が良いですか?」
私はニコニコと指示を仰ぎながら、彼らのすぐそばへと歩み寄りました。私の靴音が、床を「コツ、コツ」と軽やかに叩きます。
カウンター越しにその様子を見ていた三人の心臓は、恐怖で爆発しそうでした。
礼奈は、車椅子の上で息を止めていました。
(あぁ……どうして。さっきまであんなに神々しい霧に包まれていたのに、今はまるで何もなかったみたいに、いつもの『真白ちゃん』として笑ってる。その無邪気さが……その『何も知らない』という顔が、何よりも怖い。彼女は自分が何を壊したのか、何を変えてしまったのかさえ、もう認識できないの?)
桂奈は、プロデューサーとしての計算を完全に放棄していました。
(ダメだ、思考が追い付かない。さっきの霧の正体、そして一姫ちゃんを操ったという推測……それがすべて、この『普通の掃除の会話』の裏側に隠れているなんて。彼女は今、この世で最も危険な存在なのに、本人はシチューの仕込みや掃除の順番で頭がいっぱいなの? それとも……この『日常』という演技こそが、彼女が神格を隠すための最大の防御壁なの?)
斎藤社長は、真白が近づいてくるたびに、本能的に後ずさりしたくなりました。
(近づいてくる……。彼女の周囲だけ、時間の流れが違うような気がする。私が経営するこの店が、彼女という神の依代によって、ゆっくりと現実世界から切り離され、聖域へ引きずり込まれている。彼女はただ『掃除』と言っているが、彼女が触れる場所はすべて、この世の理から抹消されているのではないか?)
三人は、自分たちに微笑みかける私の姿を直視することができませんでした。私が近づけば近づくほど、彼らは「真白という人間」を愛するほどに、「神という異物」を目の当たりにするという皮肉な現実に打ちのめされていました。
「……真白ちゃん」
礼奈が震える声を絞り出し、私の顔を見上げました。その瞳には、かつての親愛の情と、今の恐怖が入り混じった複雑な色が浮かんでいました。
「……本当に、何も……掃除以外のことは、したくないの?」
私はその問いの意味を深く考えもせず、ただいつものように小首を傾げて、屈託なく笑い返しました。
「ええ、もちろんです! お掃除して、美味しいコーヒーを淹れる。それが私の仕事ですから。さあ、次はどこにしましょう?」
私は何事もなかったかのように、手元の布巾をキュッと握りしめました。私の銀白に染まった髪が、三人の目の前でさらりと揺れ、その光沢がカフェの日常の色彩を、少しだけ、確実に「白」へと塗り替えていました。
「掃除の続き」を求める真白の純粋さは、もはや暴力的なまでの浄化。彼女の手によって磨かれた『エテルニテ』は、もはや街のカフェではなく、外界から隔絶された「白き聖域」へと変質しつつあります。礼奈たちが抱く「恐怖」すら、彼女の笑顔という名の浄化布で拭き取られてしまうのでしょうか。




