防波堤の決壊、黄金の神託
真白の寝息が響く裏側で、魂天神社の守護者たちは「禁忌」の正体に辿り着きました。彼女が頑なに守り続けた「一日一戦」というルール。それは、自らの自我を保ち、愛する日常を壊さないための、最後にして唯一の防波堤だったのです。しかし、一姫の強欲がその堰を切った今、神殿からはかつてない「黄金の光」が溢れ出そうとしていました。
真白の寝息が神社の奥から静かに聞こえ始めると、居間には重苦しい沈黙が降りた。一姫は先ほどまでの取り乱した様子をかなぐり捨て、震える手で茶を啜った。その茶碗を持つ指先は、さきほど神の意思によって強制的に牌を操られた感覚が残り、今も微かに痙攣している。
「……あんなの、あってはならないことにゃ」
一姫は猫耳を深く倒し、暗い眼差しで床を見つめた。
「ワン次郎、琳琅。……私が卓に座った瞬間、喉の奥が氷で塞がれたみたいに言葉が凍りついたんだにゃ。勝負を止めようとしたのに、口からは『にゃあにゃあ』と、ただの猫の鳴き声しか出なかった。それだけじゃない……。私の手は、最初から私の意思を離れていたにゃ。真白の炎に焼かれ、指先が操り人形の糸に釣られるみたいに牌を動かした。あの時、私は私自身じゃなかったんだにゃ」
ワン次郎は、その言葉を聞いて鋭い牙を剥き出しにし、重く低い唸り声を上げた。その瞳には、一翻市の守護者としての深い憂慮が宿っている。
「ワン……それは確信に至る証拠だ、一姫。真白様が卓に着いた瞬間、境内の空気が重く澱んだ。あれは物理的な重圧ではない。因果そのものが、あの少女の『和了』という結末に向けて強制的に書き換えられていたのだ。我らも、真白様を止めるための言葉を吐こうと喉を焼いたが、結局は獣の鳴き声としてしか外部へ干渉できなかった。あれは単なる精神操作の範疇を超えている。真白様という存在が、この街の理そのものを支配下へ置いたのだ」
琳琅もまた、幼い姿にそぐわぬ沈痛な面持ちで、小さく爪を立てた。彼女は神殿の方角を畏れ多げに見やり、震える声で告げる。
「琳琅も……琳琅も見たわ。真白様の背後に渦巻く青白い炎、あれは人の業を焼き払う神罰の光。私たちが必死に守ろうとしているあの優しい真白様は、もはや人の領域にはいらっしゃらないのね。一姫、貴方が体験したのは、神への不敬に対する『対局による強制執行』。……あのまま無理やり一局を終わらせなければ、貴方の魂は、この世界から跡形もなく消し去られていたはずよ」
三人はその恐る恐るの結論に、ただ背筋を寒くして肩を寄せ合った。真白が「日常」を壊さないようにと細心の注意を払っていた彼らでさえ、今夜の出来事で、真白という神格の底知れぬ深淵を垣間見てしまったのだ。
一方、その頃。
神殿の奥、月の光が差し込む寝具の中で、真白は夢の中でさえも自身の「変化」を自問自答していた。
枕元に垂れた銀白の髪を、眠りの中で無意識に握りしめる。彼女はそれを「魂天様からの罰」だと固く信じて疑っていなかった。自分が役満という傲慢な奇跡を三度も起こし、さらにはカフェで街の住人を畏怖させてしまったこと。その身勝手な振る舞いが、神の鏡を曇らせ、自身の髪色を白く変えてしまったのだと、自分自身を激しく責め立てる。
「……もっと、清めなければ」
寝言のように呟く声は、どこまでも純粋で、痛々しいほどの奉仕の精神に満ちていた。
明日起きたら、もっと早く起きて境内の隅々まで雑巾がけをしよう。お供えも、今まで以上に真心を込めて選ぼう。麻雀という名の遊戯で誰かを傷つけないよう、もっと自分を律して、清廉な巫女として精進しなければならない。
彼女の中で、「神格化」は「罪の意識」へと変換され、さらなる献身という名の茨の道へと繋がっていく。自分を責め、清めることこそが、愛する日常を守る唯一の手段だと信じて。真白は悪夢の中でなお、神社の石段を磨き続ける自分の姿を夢見ていた。
一姫はガタガタと震えながら、記憶の断片を必死に繋ぎ合わせていた。先ほどまでの、強制的に牌を捨てさせられた恐怖の記憶が、ようやく彼女の理性を正常な位置へと押し戻す。そして、脳裏に雷鳴のような衝撃と共に、ある言葉が蘇った。
「思い出したにゃ……以前、真白がポツリと漏らしていた言葉を思い出したにゃ!」
一姫は他の二人を激しく揺さぶり、切迫した声で続ける。
「真白は言っていたにゃ。『一日一戦までって決めているんです。それ以上打つと、頭の中がぼんやりして、自分の感覚じゃなくなってしまうような気がして』……そう言っていたにゃ。あれは単なる謙遜や趣味の制約なんかじゃなかったんだ。あれこそ、真白という依り代が、神格の侵食を食い止めるための最後の防波堤、あるいは『神託』だったんだにゃ!」
ワン次郎は、その言葉を聞いて血の気が引く思いをした。獣の鋭い直感で理解する。真白の精神が「自分の感覚じゃなくなる」と表現していたのは、彼女の自我が剥がれ落ち、魂天神社の主神そのものが彼女の身体を乗っ取ってこの世に降臨しようとする、その境界線だったのだ。
「……ワン。ならば、今夜の我らの振る舞いは、神の降臨を促すという最悪の禁忌を犯していたということになるな。真白様が、なぜあそこまで頑なに『一日一戦』を守り、それ以外の時間を掃除や料理という庶民的な日常に捧げていたのか……すべて繋がった。彼女は、自らが神そのものへと変容することを極限まで拒み、私たちと同じ『人間』の時間を懸命に繋ぎ止めようと足掻いていたのだ」
琳琅も涙を浮かべ、真白が寝ている神殿の方向を向いて震える。
「真白様は、自分を罰することで、何とか人間としての形を保とうとしていたのね。……あんなに優しくて、あんなに掃除が好きで……そんな彼女の日常を、私たちが、一姫が、壊してしまったの……?」
その時、神殿の奥から、うわ言のような真白の寝言が響いてきた。それは穏やかな夢を見ている者の声ではなく、対局中の冷徹な執行者が獲物へと告げる死の宣告そのものだった。
「……ふふ……一姫さん……どの牌でもいいですから……早く切って……楽になってくださいね……」
その言葉を聞いた瞬間、三人は氷水に浸けられたかのような悪寒に襲われた。あれは真白の言葉ではない。彼女の喉を通り、彼女の意思を塗り替えた「何か」が、一姫という存在の消滅を慈悲と称して求めているのだ。今夜、もし一姫が「早く切って」というその促しに応じず、最後まで牌を隠し持っていたら、彼女の魂はどうなっていたことか。
「……にゃあぁ……! もう二度と、絶対に二度とあんなことには付き合わないにゃ……! 明日から、どんなに真白が頼んでも、一日一戦以上の対局は、力ずくでも止めるにゃ!」
ワン次郎と琳琅も深く頷き、無言のうちに「対局阻止」の誓いを立てた。
その直後だった。静寂に包まれていた神殿の内部から、眼が潰れるほどの強烈な黄金色の光が漏れ出した。それは今までの青白い神気とは質の違う、より上位の、宇宙の理を司るような絶対的な光だった。
真白の「清めなければ」という純粋な奉仕の心が、皮肉にも神格との同調をさらに加速させてしまいます。一姫たちが守ろうとしていた「普通の女の子・真白」は、今夜、決定的な変質を遂げようとしていました。溢れ出す黄金の光は、一翻市の夜を塗り替え、新たな「神託」を告げる予兆なのか。




