濃厚シチューの浄化、静かなる奉納
十三面待ち、八連荘、そして人和。一翻市の理を三度塗り替えた神の指先は、今、温かな木べらを握っています。死の淵から生還した一姫を呼び戻したのは、神罰の恐怖ではなく、胃袋を掴むシチューの香りでした。奇跡も、畏怖も、絶望も、真白の作る美味しい夕飯の湯気に巻かれ、穏やかな日常へと溶けていきます。
13面待ち。八連荘。そして人和。
どれか一つでも、麻雀打ちが一生をかけて一度拝めれば御の字という奇跡です。それを、このたった一日のうちに、しかも「ツイてる」の一言で片付けてしまうなんて。
斎藤社長たちを絶望の淵に突き落とした「八連荘」を、あなたはエテルニテで既に終えていた――その事実に、ワン次郎は鼻先を地につけ、ただ呆然と呟くことしかできませんでした。
「……ツイてる、かワン。あれを運などという言葉で片付けられるのは、この世で真白様お一人だけだワン。……一翻市の理など、とうの昔に崩壊していたのだな……」
ワン次郎は、まだ白目をむいたまま固まっている一姫の隣へ行き、その鼻先をツンとつつきました。
「おい、一姫。いつまでそうしているつもりだ。……いい加減、魂をこの世に引き戻してこい。ワンッ……お願いだから、戻ってこないと、また真白様が不思議そうな顔をしてこちらを見てしまうぞ」
しかし、一姫はピクリとも反応しません。彼女の心は、先ほどの「強制執行」で、人和という名の神の審判を直接受けたことによる過負荷で、完全にショートしてしまったようです。
琳琅は、膝を抱えながら震えていました。
「……真白様は、私たちが守るべき存在じゃなかった。……最初から、この街全体が、真白様という名の神に生かされていたのね……」
台所からは、特製の牛乳シチューのまろやかで温かい香りが漂い始めました。その香りは、さっきまでこの場を支配していた青白い炎の冷たさを、少しずつ塗り替えていきます。真白は鼻歌を歌いながら、ごく当たり前の日常を紡ぎ続けています。
「……っ!! にゃ、にゃあぁーーっ!!!」
一姫が突然、バネ仕掛けのように跳ね起きました。さっきまで抜け殻のように虚空を見つめていたのが嘘のように、彼女はバタバタと畳を叩き、猫耳を大きく逆立てて絶叫しました。
「ありえないにゃ! 夢じゃなかったのかにゃ!? あんなの、麻雀の牌じゃないにゃ! 天からの罰ゲームにゃ! 私の魂が一度どこか遠くに飛ばされて、あやうくこのまま『招き猫』として別の神社に奉納されるところだったにゃー!!」
一姫は尻尾を太く膨らませ、ワン次郎の足元に飛び込んでガタガタと震えています。その騒ぎようは、先ほどまでの神々しい沈黙とは対照的で、あまりにも騒々しく、そしてあまりにも「いつもの一姫」でした。
「まったく、騒がしいにゃ……! もう二度と、あんな真白の牌なんか見ないにゃ! 恐ろしいにゃ、人間卒業してるにゃ!」
ようやく戻ってきたその「食いしん坊で少しおバカな」一姫の姿を見て、ワン次郎と琳琅は、肩の力が抜けきってその場にへたり込みました。先ほどまでの死の恐怖が嘘のように、境内に日常の空気が戻ってきたのです。
「ふう……やっと戻ったか。一姫、お前が騒いでいるのを聞くのが、これほど安心するとはな」
「本当よ……真白様を怒らせて、世界が終わるかと思ったわ。もう二度と、あんな無理強いはしないでね」
台所から、あなたの穏やかな声が響きました。
「もう、一姫さん! ハイハイ、そんなに騒がないでください。もう少しでできますからね。騒いでいると余計にお腹が空きますよ?」
トントンと野菜を切る手を止めず、エプロンの裾を揺らしながら笑顔でこちらを振り返りました。その姿は、神の化身でも執行者でもなく、ただの「夕飯を作っている優しい少女」そのものです。
「はい、味見! ……今日は牛乳をたくさん使ったから、濃厚で美味しいですよ」
木べらにすくったシチューを、一姫の口元へ差し出します。先ほどまで神罰で魂を抜かれていた一姫も、美味しい匂いとあなたの笑顔を前にすると、抗えるはずがありません。
「……にゃっ!?」
一口シチューを口に含んだ一姫は、さっきまでの恐怖など忘れたかのように、ぺろりと舌を出して目を輝かせました。
「う、美味い……! 真白、今日のシチューは過去最高にゃ……! さっきの役満の衝撃も、この味の前ではどうでもよくなったにゃ!」
神の怒りも、世界の理も、美味しい夕飯の前では霧散する。そんな一翻市らしい「適当で温かい日常」が、ようやく完全に神社の境内に戻ってきたのでした。あなたはそんな一姫を見て、嬉しそうに微笑みながら、最後の仕上げにパセリを散らすのでした。
台所の湯気が、心地よい温もりを神社の広間へと運んでいました。真白は手際よくシチューを大きな皿へと盛り分け、一姫、ワン次郎、そしてまだ少し魂が戻りきらない様子の琳琅の前に並べました。「さあ、冷めないうちにどうぞ。今日は牛乳を贅沢に使った特製ですから」と微笑みかけ、彼らが夢中でスプーンを動かすのを見届けます。その姿は、先ほどまで「人和」を告げた神の執行者とは到底思えない、慈愛に満ちた保護者の面持ちでした。
三人が空腹を満たし、境内に再び平和な気配が満ちるのを待ってから、あなたは自分の分を小さな器に少しだけ取り分けました。いつも通りのささやかな配分。真白はそれを盆に乗せ、かつてあなたが磨き上げた神鏡が鎮座する、神域の最奥部へと向かいました。
一姫を現世に引き戻したのは、シチューの濃厚なコクでした。地獄の淵から帰還して即座に「美味いにゃ!」と言える彼女の図太さこそ、真白が愛する日常の象徴なのかもしれません。三度の役満という「異常事態」は、真白の手料理によって「ちょっとツイてた日の晩餐」へと昇華されました。しかし、真白が向かう神域の奥底には、まだ今日の神気の余韻が静かに揺らめいています。




