第35話:抱擁と鎮魂、そして明日のために
壊れた皿、流れた血、そして家計の断罪。波乱に満ちた夜の台所で、真白が最後に示したのは、凍てつくような神威ではなく、すべてを包み込む柔らかな慈悲でした。龍としての誇りを捨てて震える琳琅に対し、真白は自らの「未熟」を語り、絆を繋ぎ直します。しかし、去り際に見せた「青き霧」は、彼女が背負う宿命の深さを物語っていました。
真白はゴミ袋の口をしっかりと結ぶと、台所の床にへたり込んだまま震えている琳琅の背後に、音もなく歩み寄りました。
「……琳琅さん、はい、終わりましたよ。そんなに泣かないでください」
真白は屈み込み、怯える小鳥のような彼女をそっと背後から抱きしめました。真白の体温と、巫女服から漂う清浄な香りが、彼女の張り詰めた神経を少しずつ解きほぐしていきます。
「……私は、何もしません。誰かを罰したり、何かを消し去ったり……そんなことは望んでいません」
真白の声は、彼女の耳元で優しく、そして震える心をなだめるように響きます。
「もし仮に、私の中に何か特別な力があるのだとしても。先ほど、琳琅さんからいただいた大切な勾玉を壊してしまったのは、その力を上手く制御できなかった……私の未熟さゆえです。だから、琳琅さんが自分を責める必要なんてないんですよ」
あなたは懐から、丁寧に接着剤で補修された勾玉を取り出しました。いくつもの亀裂が走っていますが、それでも繋ぎ合わされたそれは、先ほどよりもどこか温かみを増しているように見えます。
「見てください。こうして直しました。形は変わってしまったけれど、いただいた時の気持ちは、ずっとここにありますから」
真白の言葉に、琳琅は目を見開きました。神として畏怖し、絶対的な存在として仰いでいたあなたから、「未熟者」という言葉が出たこと。そして、自分の過ちを自分のこととして語るあなたの優しさに、彼女は再び涙を溢れさせました。しかし、それは先ほどまでの「恐怖」による涙ではなく、あなたという存在への「深い愛おしさと帰依」による涙でした。
ワン次郎は、その光景を横目で見て、安堵と感銘の入り混じった表情で小さく鼻を鳴らします。一姫ですら、さすがに事の重大さに気づいたのか、ポテチの袋を閉じて、神妙な顔つきでそのやり取りを見つめていました。
あなたは琳琅を優しく抱きしめたまま、静かに続けます。
「私はただ、こうして皆さんと一緒にご飯を食べて、明日もまた笑って過ごしたいだけなんです。私の願いは、ただそれだけなんですよ。……ですから、もう泣き止んでくださいね?」
あなたの言葉は、この神社の澱みを晴らし、そこに「日常」という穏やかな空気を呼び戻す鎮魂歌のように、琳琅の心に深く深く染み込んでいったのでした。
「それでは私は、明日も『エテルニテ』でバイトがありますので、先に休ませていただきますね。夜ふかしは体にも、明日のお肌にもいけませんよ。……おやすみなさい」
真白が微笑みながら立ち上がると、その所作の背後から先ほどと同じ、凍りつくように清冽な青い霧が、薄い羽衣のように揺らめきながら立ち上りました。
それは真白が「神職としての管理代行者」から「日常を生きる一人の少女」へ戻るための鞘のようなものなのかもしれません。あなたが部屋を後にし、障子が静かに閉まると、霧が完全に消え去るまで、三人は息をすることさえ忘れてその場に釘付けになっていました。
真白の抱擁は、琳琅にとってどんな加護よりも心強い救いとなりました。神としての威厳と、バイトのシフトを気にする少女の等身大の悩み。その二つの境界線で揺れ動く彼女の姿こそが、従者たちを惹きつけて止まない理由なのかもしれません。




