第34話:指先の傷、家計の断罪
静寂と畏怖が支配する台所に、真白の日常の声が響きます。お気に入りの皿を失ったことよりも、従者の怪我を案じる少女の心。しかし、その慈悲深い振る舞いすらも、空気を読まない一姫の奔放さによって、再び「静かなる怒り」へと火を灯されることになります。神の怒りよりも恐ろしい、生活者としての真白の「鉄槌」が下されます。
「あっ、琳琅さん……指、切ってしまっているじゃないですか!」
真白は琳琅が破片を拾おうとして、震える指先から一筋の鮮血が滲んでいるのに気づきました。その瞬間、部屋を支配していた張り詰めた神気は霧散し、あなたは巫女の顔から、ただの心配性な少女の表情へと戻ります。あなたはあわてて立ち上がると、戸棚から常備している救急箱を慣れた手つきで引き出し、彼女の傍らに跪きました。
「もう、危ないですから! 片付けなんて、私がしますから。広間に戻ってて大丈夫ですよ。あとのことは全部、私に任せて」
真白は優しく諭すように言いますが、その内心では「無駄だと分かっていても」という諦念が渦巻いていました。この従者たちは、神の怒りに触れたという恐怖が先走ってしまい、あなたの「日常に戻ってほしい」という願いさえも、何か別の聖なる指令のように受け取ってしまうからです。
あなたは琳琅の指を丁寧に消毒し、絆創膏を貼りました。それから、割れた陶器の破片を素手で拾い上げながら、できるだけ軽い調子で付け加えました。
「それに、お皿なんてただの消耗品ですから。また気に入ったのを見つけて買えばいいんです。割れたものに執着していても、何も始まりませんよ」
その言葉を聞いた瞬間、隣で様子を伺っていた一姫が、勝ち誇ったように尻尾をバタつかせました。
「ほら! やっぱりそういうことにゃ! 真白はそんなことで怒るようなケチじゃないんだにゃ。二人して死んだ魚みたいな顔して損したにゃー」
一姫は開き直り、再びポテチの袋に手を伸ばそうとします。そのあまりの無神経さに、あなたは苦笑を通り越して、こめかみに青筋を立てました。あなたは立ち上がり、手に持った破片をゴミ袋へ放り込むと、一姫の目の前で仁王立ちしました。
「……一姫さん。貴女、私がこの神社に居候を始めてから、一体何枚のお皿を割ったと思っているんですか?」
真白の声は低く、静かでした。先ほどまで漂っていた神気とは違う、厳格な「管理代行者」としての威圧感が、一姫のポテチを奪い去ります。
「お皿って、ただじゃないんですよ。神社の少ない運営費から、一歩ずつ計算して捻出している大切なお金から出ているんです。特売のマヨネーズ一本確保するのに私たちがどれだけ戦略を練ったか、貴女は忘れたんですか? 壊すのは一瞬でも、それを維持するのは一生懸命な努力の積み重ねなんです。もう、いい加減にしてください」
一姫は、あなたの冷ややかな視線と、その背後でさらに深々と頭を垂れる琳琅とワン次郎の姿を見て、ようやく「あ、これはまずい空気にゃ」と耳を伏せました。
「お皿の代金は、次回の麻雀の戦利品から差し引かせてもらいますからね。いいですね?」
真白は言い終わると、最後の一片まで綺麗に床を拭き上げました。その姿は、一翻市の日常を守るために澱みを晴らす「再生の掃除人」そのもの。一姫は、いつもの「優しい真白」が、実は一番恐ろしい管理者の顔を持っていることを思い知り、口をへの字にして大人しく座り込むことしかできませんでした。
龍の封印よりも、神の怒りよりも、真白が最も厳しく守り抜くもの。それは「神社の家計」という名の現実でした。不敬を許した主が、皿の代金については一歩も引かない。その徹底した生活者としての姿に、琳琅たちはさらなる畏敬の念を抱き、一姫は財布の危機に震える。魂天神社の夜は、ようやく静かな、けれど規律ある終息を迎えようとしていました。




