朝露の誓い、制服の出陣
魂天神社の夜は、温かな食事と仲間たちの寝息と共に深まっていきました。記憶を失った不安を「新しい縁」という光で塗り替えた真)は、守護犬ワン次郎との絆を深め、神域の加護を感じながら深い眠りにつきます。そして、清々しい朝の訪れと共に、彼女は再び「巫女」から「エテルニテの店員」へと姿を変え、新たな一日へと駆け出します。
居間へと続く廊下を歩いていると、障子の向こうから一姫と琳琅の楽しそうな笑い声が漏れ聞こえてきました。
「(……ふふっ、一姫さんたら、本当に琳琅ちゃんと仲良くなったみたいですね。一姫さんのあの底抜けの明るさは、巫女として一番大切な『陽の気』なのかもしれません。ワン次郎さんの言う通り、私には私の、一姫さんには一姫さんの巫女の形がある……)」
自分の胸に手を当て、そこにある確かな鼓動を感じました。『エテルニテ』で礼奈さんに教わる新しい世界のルール。
一姫と囲む、賑やかで少し騒々しい食卓。そして、記憶はないけれど、体がおぼえている掃除の所作。
それらすべてが、今のあなたを形作る大切なピース(牌)なのだと、今の彼女なら思えるのでした。
「よし、明日は今日よりもっと美味しいコーヒーを淹れられるように、礼奈さんの動きをよく観察しなきゃ。……あ、その前に、私の分のメンチカツを死守しないと!」
「ワン次郎さん、魂天様にお供えしたお下がりを少しだけ分けてきました。……はい、今日もお疲れ様でした。おやすみなさい」
神棚から下げたばかりの、まだほんのりと温かい炊き立てのご飯に、少しだけメンチカツを添えてワン次郎の前に置きました。守護犬としての威厳を保ちつつも、ワン次郎の鼻先が美味しそうな匂いにぴくぴくと動くのを見て、あなたは思わず笑みをこぼします。
「一姫さんと琳琅ちゃんは、もうお腹いっぱいで眠ってしまったみたいです。……ふふ、あんなに賑やかだったのに、静かになると急に夜の深さを感じますね」
ワン次郎がハフハフと器用に食事を楽しみ、最後の一粒まで綺麗に平らげるのを、真白はその場に膝をついて見守っていました。その所作の一つ一つに、記憶はなくとも「自分はこうして誰か(あるいは何か)の世話を焼くのが好きだったのだろう」という確信が、静かな確信となって胸に積もっていきます。
食後のワン次郎が満足げに喉を鳴らし、あなたの巫女装束の袖にそっと頭を寄せました。あなたは、その硬くて温かい毛並みを優しく撫でながら、改めて夜の境内を見渡します。
「(……記憶がないということは、暗闇の中に立っているようなものだと思っていたけれど。こうしてワン次郎さんがいて、一姫さんの寝息が聞こえて……。大人気カフェ『エテルニテ』で礼奈さんに必要としてもらえる場所がある。それだけで、暗闇はもう怖くないのかもしれません)」
立ち上がり、巫女装束のシワを丁寧に伸ばしました。明日、目が覚めたらすぐにいつもの竹箒を手に取り、ワン次郎と一緒に銀杏の葉を掃く。その日常の繰り返しこそが、今のあなたにとっての「救い」であり「巫女としての歩み」そのものでした。
「さあ、私も休みますね。ワン次郎さん、明日の朝は約束通り、一番に起こしてください。神社の空気を、どこよりも澄んだものにしましょう」
最後に一度だけ拝殿の方を振り返り、優しく微笑んでから自室へと向かいました。
拝殿の奥、薄暗い御簾の向こう側から、微かな光が漏れ出しました。それは、あなたが今日一日の中で積み上げた「徳」と「祈り」に呼応するかのような、柔らかな琥珀色の輝きでした。
魂天神社の象徴である見えない「天秤」が、夜の静寂の中で音もなく揺れ動きます。左にはあなたの真摯な祈りが、右には一姫や礼奈、そして雛桃からもらった感謝の笑顔が乗り、完璧な均衡を保ちながら黄金の粉を撒き散らしています。
拝殿に供えられたメンチカツから立ち上る微かな湯気が、龍の息吹のような形を成して天井へ昇っていきます。神様は、豪華な捧げ物よりも、あなたが「一姫やワン次郎を想って用意した食事」の温もりを、何よりも喜んで受け取られたようでした。
眠る部屋の枕元で、昨日拾った「不思議な綿毛」が一度だけポッと発光しました。彼女の失われた記憶は、まだ完全には戻りませんが、この場所で「新しい縁」を紡ぐたびに、神域の一部としてあなたの魂に深く根付いていくのでした。
「ワンッ!」
鋭くも温かいワン次郎の声が、朝霧の立ち込める境内に響きました。あなたは心地よい疲れが消え去った、驚くほど軽い体で跳ねるように目を覚まします。
「(ザッ、ザッ……)……おはようございます、ワン次郎さん! 霧の中の銀杏の葉も、しっとりしていて綺麗ですね。さあ、一気に掃き清めてしまいましょう!」
手早く巫女装束に着替え、清々しい朝の空気の中、竹箒を手に取りました。昨夜の魂天様の神秘的な反応を知ってか知らずか、今のあなたには、この場所を掃除することが自分自身の心を磨くことだと確信できていました。
ワン次郎はあなたの横を歩き、鼻先で枯れ葉を寄せたり、時折振り返ってあなたの掃除の手際を確認したりしています。
「お嬢さん、今朝の箒の音は昨日より一段と冴えているワン。魂天様もご機嫌だワン」
竹箒が通ったあとの地面からは、湿った土の清廉な香りが立ち上ります。銀杏の葉に降りた朝露が、朝日を浴びて宝石のようにキラキラと輝き始めました。
「(……この掃除が終わったら、昨日一姫さんに言われた『初心者のふり』ではなく、本当の初心者として、もっと真剣に牌のことも勉強してみようかな。そうすれば、エテルニテに来るお客様とも、もっと深いお話ができるかもしれないし……)」
額に浮かんだ微かな汗を袖で拭い、昇り始めた太陽に向かって微笑みました。
「さあ、ワン次郎さん。ここが終わったら朝食の準備です! 今日は『エテルニテ』の二日目。昨日よりもっと、礼奈さんを驚かせるような素敵な店員さんになってみせますね!」
朝食のメンチカツサンド(昨夜の残り)を大急ぎで平らげると、あなたは再びベージュのブレザーとチェックスカートの制服姿に着替えました。鏡の前で身だしなみを整えるその姿は、一翻市の人気カフェ『エテルニテ』の店員としての自覚に満ちています。
しかし、出勤前に一仕事残っていました。
玄関先で、まだ眠たそうに目をこすっている一姫の前に立ち、ビシッと指を指しました。
「いいですか、一姫さん。私はこれから『エテルニテ』へアルバイトに行ってきます。私がいない間、境内の廊下と拝殿の雑巾がけを済ませておいてくださいね。……もし帰ってきたときに終わっていなかったら、今日の晩御飯は抜きですからね?」
一姫:
「にゃ、にゃにゃにゃんだってー!? 晩御飯抜きは死活問題ニャ! 真白、あんた最近なんだか厳しくニャってないかニャ!? 記憶喪失前はもっとおしとやかだったはずニャ……!」
「ふふっ、覚えていない私に言われても困ります。でも、神社の神聖な空気を保つのも巫女の立派な仕事ですから。ワン次郎さん、見張りをお願いしますね」
ワン次郎:
「心得たワン。お嬢さんが安心して働けるよう、あやつがサボらないよう厳しく監視しておくワン」
ワン次郎に見送られながら、神社の石段を駆け下りました。心なしか、制服のポケットに入っている「不思議の国の綿毛」が、あなたの足取りに合わせて温かく揺れている気がします。
記憶の欠片はまだ暗闇の中にあるかもしれません。しかし、真白が今朝掃き清めた石畳のように、彼女の心は一歩ずつ、確実に光の方へと向かっています。一姫への厳しさは、この場所を「家」として大切に思う責任感の裏返し。制服を翻して街へ向かう彼女の背中には、昨日よりもずっと確かな自信が宿っていました。




