流星群・二
かすかな歌が聞こえて、僕は目を覚ます。
簡易テントの中に僕はいた。あれから、どれくらい時間が経っただろうか。永遠かと思われた流星群も、やがて終わりを迎える。それと時を同じくして、ウトナコペムルイもまた、空の彼方へと去っていった。壮大な光景の余韻に浸りつつ、僕たちはとりあえず寝床の用意をして、眠りについたはずだ。
隣を見ると、イノリの姿がない。腕時計を見ると、もうじき午前三時だ。そして、外からはかすかに彼女の声が聞こえる。再び寝入ることもできずに、僕は起き上がると、寝袋から体を出して外に出る。
月明かりの下、イノリは大きな石に腰掛けて、空を見上げていた。その唇が動くと、小さな歌声が風に乗って僕の所にまで届く。
森の奥に住まう まぶたを持たぬ長い首の古老よ
あなたの眠りを覚まさぬよう 私たちは静かに暮らします
春には野の草を摘み 夏には魚を釣りましょう
秋には木の実を籠に集め 冬にはシカを追いましょう
長い時を経て 再びあなたの内に抱かれるまで
私は見聞きします あなたに語るべき歌を 詩を 唄を
お受け取り下さい
四季折々の先人たちの営みを歌った、素朴で短い歌だ。冒頭に出てくる「古老」とは、祖霊である蛇のことらしい。先人にとって、蛇とは祖先の姿とほぼ同義のようだ。他の動物は狩るが、決して蛇を傷つけたり殺したりすることはない。それは先祖を傷つけたり、殺したりすることと同じだからだ。この辺りも、日本古来の感覚とよく似たものを感じる。
イノリが歌い終えるのを舞ってから、僕はそっと拍手した。弾かれたように、彼女が振り返る。どうやら歌に集中していて、僕が起きたことに気づかなかったらしい。
「雪人さんっ?」
「上手だね。とてもいい歌だったよ」
「そ、そう言われると、とても恥ずかしいです」
いつものようにさっと顔を赤くするイノリだったが、すぐに困った顔になる。
「申し訳ありません。私の歌で雪人さんを起こしてしまいましたか?」
「いや、大丈夫だよ。何だか、誘われたような気がしたから起きただけだから」
違うといったら嘘になるので、大丈夫だとだけ言う。
「隣、いいかな」
「はい、喜んで」
僕はイノリの隣に腰を下ろす。はずれの草原は、観客が帰った劇場のように静まりかえっていた。
向こうにはアトリヘルとヒダルキがいる。アトリヘルはすっかり熟睡しているようだ。ヒダルキの方はこちらに背を向けて座っている。恐らく浅く眠っているか、起きて周囲を見張っているかのどちらかだろう。けれども視線を移して空を見上げれば、もう二人の気配は伝わってこない。
感じるのは、隣のイノリの気配と体温だけだ。しばらくの間無言で、僕たちはじっと月を眺めていた。まるで、この世界に存在しているのは自分とイノリの二人だけ。そんな風に錯覚してしまいそうになる。しばらくの間、僕たちは何もせずに、ただぼんやりと寄り添っていた。真夜中を過ぎた深夜。不思議な時間が二人の間を流れている。
確かに流れているはずなのだが、同時に止まっているかのようだ。変化がないから、時間の流れを体感できないでいる。
「私たち、結婚したんですよね」
どれくらい、無言で一緒にいたのだろうか。五分か、それとも十分か、あるいは三十分か。わざわざ腕時計に目をやることはない。これは時計の短針と長針の動きでは計れない時間だからだ。
「ああ、そうだよ。一年間という限定された期間だけど、その間だけは僕とイノリとは夫婦だ」
イノリの言葉に、僕は応える。
「なんだか、夢みたいです」
そう呟くと、不意にイノリはこちらを向いた。背筋を伸ばして、居住まいを正す。急に、その小さな体躯がすっと伸びたような錯覚を覚えた。
イノリ? と尋ねる前に、彼女の声が続く。
「ずっと、感謝の気持ちを伝えたかったんです。私がなくした小刀を、一緒になって探して下さった方に。あれは、私が生まれた時に祖母が作って下さった、かけがえのないものだったんです」
本当に、イノリが喋っているのか。
結婚してから耳にしてきた、あの控えめで、優しく、どこか自信のない声音はもう聞こえてこない。まっすぐに伸ばした背筋と、こちらに向けられた凜とした視線。それに応じるかのようにして、彼女の声は澄み渡り、静かな力に満ちていた。イノリが口にしていたのは、僕と彼女が最初に出会った時の話だ。
僕と彼女のなれそめは、彼女のなくした小刀を見つけたことから始まっている。あれは、祖母が作ったものだったのか。先人たちの間では、幼い子供のために家族が様々な道具を作って与える風習がある。子供の方は、それが壊れて使えなくなるまで使い続けるのだ。そして子供が壊してしまったことを、家族は怒ったり悲しむどころか逆に喜ぶ。
よく壊れるまで使い込んだ。これを壊すくらいに力が付いたのか。そう言って喜び新しい道具を与えるか、あるいは自分で道具を作るように促すかのどちらかだ。けれども、イノリは、まだ充分使えるものを置き忘れてしまっていた。もしそのままなくなっていたら、祖母は彼女が小刀を壊すまで使い込む様子を見ることができなかっただろう。
イノリが僕のした小さなことに深く感謝していたのは、そのような理由があったかららしい。
「せめてものお礼にと、雪人さんに首飾りを差し上げた時も、頭が真っ白になってしまって、私はまともにお礼を言うこともできませんでした。本当に、あの時の私は礼を失した者でした。申し訳ありません」
イノリは頭を下げる。
ただ謝っているのではなく、作法にかなった厳粛な形で。そういえば、そうだったかもしれない。ペンダントを持ってきたイノリは、今のように落ち着いていなかった。頭から湯気が出そうな程に顔を赤くして緊張し、僕の手に流星草のペンダントを押しつけるや否や、脱兎の如き勢いでいなくなってしまった。
「でも、雪人さんがもう一度里に来るって聞いて、私は嬉しかったんです。今度こそ、ちゃんとお礼が言える。しばらく留まられるそうなので、お役に立ちたい。ご恩をお返ししたい、そう心に誓ったんです。そうしたら、願ってもないことが起きました」
腰掛けていた岩から立ち上がると、イノリは草の上に姿勢を正しくして座る。
「私は、一年間だけですけど、雪人さんと結婚することになったんです。妻として、雪人さんを支える責を、担うことになったんです。雪人さん、私はとても嬉しかったんです」
そうして彼女は、再び深々と頭を下げた。三つ指をつく、という仕草に一番近い形だ。それが、結婚の時に交わされる誓いの一つであることは、言明されなくても僕は分かった。
「どうか、私をお側において下さい。あまりにもふつつかな者ですが、必ず雪人さんのお役に立って見せますから。私、父エトロナイと、母ニペナの娘であるイノリは、ここに誓います」
思えば、あまりにもどたばたとしていて、こうした作法にかなったことは一度もしていなかった。僕は日本出身の異人だし、イノリはまだ若い。
けれども、きちんとイノリは結婚の時に行われる儀礼を果たそうとしてくれたのだ。
「分かった。その誓い、受け取ろう」
どう答えていいのか分からず、もしかしたら、きちんと応答するべき文言があったのかもしれない。けれども、僕の返せる言葉はそれくらいだった。手足が緊張してかすかに震えているのが分かる。
今ここで行われたのが、先人たちの間で厳かに伝えられてきた結婚の誓いだということが分かるからだ。
「……困ったな」
頭を上げたイノリが、不思議そうな顔をして首を傾げる。
「何ですか?」
「いや、僕の側でも誓いたいのだけれども、気の利いた文言が思い浮かばないんだ」
「雪人さんでも、そういうことがあるのですね」
「いやいや、それはカイツブリというもの――じゃなくて買いかぶりというものだよ。僕はそんなに、立て板に水とばかりに舌が回る男じゃない」
参ったな。あんな事を言われて、僕は緊張しつつもかなり舞い上がっているらしい。イノリに「私をお側において下さい」なんて言われて、嬉しくないはずがない。
「よし、イノリ」
だからこそ、次に出てきた僕の言葉は、コントロールをはずれていると指摘されても仕方のない暴言だった。
「はいっ」
「キスしよう」
「き……きす? ですか?」
口にした後で、自分がどんなことを言ったのか理解した。何を言っているんだ僕は。いきなりにも程があるだろう?
「ええと……接吻? 口付け? とにかくそういうものだけど……イノリたちはしないの?」
一応、邪心はないつもりだった。とっさに、日本の習慣で結婚の誓いといったら、チャペルで行われるキスが思い浮かんだだけだ。
……多分、そうだ。
案の定、意味が伝わるとイノリの厳粛な雰囲気は一瞬で雲散霧消した。
「く、くくく口付けですか? その、あの、しないってわけじゃ、いえ、したことないですけど、その、ど、ど、どうして……。あ、別に雪人さんとするのが嫌ってわけじゃないです。違いますから。でも、でもでも、どうしてです?」
顔を真っ赤にして、今にも逃げ出さんばかりだ。逃げ出されては困るので、僕は自分の言葉の意味を説明する。
「いや、その……何と言うか、結婚式の時に、花嫁と花婿が誓いのキスをするのは、外つ国の風習だったから……」
結婚式の風習といっても、考えてみればそれはキリスト教にのっとった方式だ。和式の方が親和性がありそうなヒ国の住人と誓いを交わすならば、杯を交わす方がよかっただろうか。でもそれは、もう花乙女の選定の儀式で行っている。
「そ、そうなんですか。しきたりなんですね。ならば、守らないといけませんものね。私たち、夫婦なんですから」
自分に言い聞かせているイノリ。まだ顔は茹で蛸のままだが。けれども、このまま居心地の悪い雰囲気のまま、彼女が落ち着くまで待つのは僕の方としても少々辛い。
この際だから、度胸をつけて一気に事を進めることにする。
「じゃ、じゃあ、するけど……」
「は、はははいっ! で、で、でも、どこ、どこに……どこに、されるのでしょう……?」
しゃちほこ張ってこちらに顔を向けつつも、不安そうな表情でイノリは僕を見つめる。たしかに、どこにキスするべきだろうか。
額……はいささか子供扱いだ。かといって唇はちょっとハードルが高い。何しろ一年限定の夫婦だ。ファーストキスという概念が先人にあるのかどうかは不明だけれども、何となく今するべきではないと思う。
「頬にするんだけど、いいかな」
「あ、ほっぺたですね。はい、分かりました」
数秒考えてから、僕は頬にした。これならば無難だろう。
少しだけイノリが残念そうだったのは、気のせいだろうか。
「…………………………っ!」
イノリはキスに身構えているらしく、目をつぶって体をぎゅっと強ばらせている。すごく悪いことをしているみたいで、罪悪感がわき上がってくる。別に仮とはいえ夫婦なのだから、なにもおかしいことをするわけではないのだが。
「あの……イノリ?」
「ど、どうぞ! 私、いつでも大丈夫です!」
「そんなに緊張していると、ちょっとやりにくいんだけど」
「緊張なんかしていません! 雪人さんのお望みのままになさって下さい!」
とは言うものの、どう考えてもイノリは緊張している。
「分かった。じゃあ、ゆっくり行くよ」
そっと彼女の体に僕は手を回す。小さな背中を手で撫でるようにして抱きしめる。
「あっ…………」
一瞬イノリの全身が震えた。そりゃそうだろう。家族以外の異性にこんなことをされるのは初めてに違いない。何度もゆっくりと、その背中をさする。まるで泣いている迷子の子供を、優しくなだめるかのように。
「イノリ、いいかな?」
「は、はい……」
少しずつ、イノリの緊張がほぐれていくのが分かった。どうやら、少しはリラックスしてくれたらしい。至近距離から見つめ合うと、大きな彼女の瞳に自分の姿が映っているような気がした。本当にそうなのかは、さすがに満月の光量では分からないけれども。
「口付けは、結婚式の時にするのですか?」
「ああ、そんなところ。本当は神父さんか牧師さん……ええと、つまり、神様に仕える人が間に立つんだ。要するに、厳粛な誓いだから、神様の前で行う必要があるんだろうね」
イノリの質問に僕は答える。こうやって言葉を交わすのも、気分をほぐす一助になってくれるだろう。
「お祈りとか、するんでしょうか」
「どうだろう。定番の決まり文句はあるけれどね」
「どんなのです?」
そう聞かれても、とっさには出てこない。けれどもここで手をほどいて簡易テントに戻り、情報端末のスイッチを入れるのは無粋の極みとしか言いようがない。無理矢理記憶を手繰って、僕は言葉を探す。
チャペルの結婚式に出席したことはない。思い出せる文句は、映像や本の中に出てきた言葉の切れ端だけだ。それでも、おおよその形を復元して僕は言葉にする。
「僕もはっきりとは覚えていないけれど、確か病気の時や貧しい時とかも、死が二人を分かつまで相手を連れ添いとして愛するか、と尋ねられて、それに花嫁と花婿が『はい』って答えるんだ」
あまりにも適当な表現だったけれども、イノリは目を輝かせてくれた。これで充分だったようだ。
「とても素敵な言葉ですね」
「僕たちの場合は、死が二人を分かつまで、じゃなくて一年が過ぎるまで、だけどね。そして、指輪を交換する」
「指輪ですか?」
「お互いの指に指輪をはめるんだ。最後に口付け。そんな感じかな。今回はまあ、略式だね」
「指輪、ありませんからね……」
イノリは少しだけ、しゅんとした表情になる。イノリの花乙女としての力を使えば、草の茎と花を組み合わせて指輪を作れるかもしれない。けれども、どうせなら枯れてしまうものよりも残るものがいい。それに、たとえ指輪がなくても行動を示すことはできる。もう、イノリの体に緊張した様子はない。
「でもその代わり、口付けならばできる。――こういう風に」
やや不意を突く形になったけれども、僕はイノリの頬に、そっとキスをした。信じられないくらいに柔らかな感触が、唇から伝わってくる。体のごく一部の箇所で、ただ触れただけなのに、その感触は全身で味わうかのようだった。
「あ……」
囁くようなイノリの吐息が耳元でして、体がぞくりとした。脊椎を舌で舐められるかのような、神経に蜜を垂らされるかのような、何とも言えない感触だ。その感触がどういうものなのか、僕は間髪入れずに理解できた。これは、間違いなく病みつきになるものだ。確実に中毒になる。
「ほら、今度はこっちに」
僕はすぐさま自分の頬を指差す。あまり浸っていると、危険なものになりかねないと思ったからだ。
「わ、分かりました……いきます…………っ!」
爪先立ちになると、目をしっかりとつぶって、イノリはこちらに顔を押しつけてくる。キスと言うより、顔全体を頬にぎゅっと押しつけたような感じだ。
やっぱり、最後の最後で緊張させてしまったみたいだ。それでも、誓いのキスに変わりはない。名残惜しさもあるけれども、僕はイノリの体に回した手をほどいて、一歩下がる。
「どうだった?」
「……すごくどきどきしました。こんなに心臓の鼓動が早くなったのは、生まれて初めてかもしれません」
「それはまあ、僕もそうかもしれない」
「そうなんですか?」
「当然さ。ほら、触ってみて」
僕はイノリの小さな手を取って、自分の胸に当てる。
「本当ですね……。どきどきしてます……」
手から伝わる僕の心臓の鼓動に、イノリはじっと感じ入っているようだった。でも、逆はしない。しないったらしないのだ。
「これで、ヒ国の方式だけじゃなくて、外つ国の方式でも僕たちは夫婦になったわけだ」
「は、はい。そうですね」
改まってそう言うと、イノリは僕の言葉に影響されたのか、再び居住まいを正す。けれども今度は三つ指をついたりせず、立ったままだ。
「雪人さん、もう一つだけ、誓わせてもらってもいいですか?」
「ああ、いいけれど」
もう一つ、何かあるのだろうか。僕も心なしか背筋を伸ばして、イノリの次の言葉を待つ。
「これから一年の間、どんな難しいことや苦しいことが待ち受けているのか、私には分かりません。そして、私の肩も手も体も足も、とても小さなものです。風雪に耐えた大木のように堅く太く、偉大にして畏れ多い蛇のように強くしなやかではありません」
これだ。改まると、イノリはとても十三歳の少女とは思えないほど大人びるのだ。これが、花乙女としての姿なのだろうか。イノリは言葉を続ける。
「けれども、どうか私と雪人さんが、同じ労苦を、共に並んで背負っていけますように。病気の時も、貧しい時も、時が巡って私たちの任が解けるその日まで、夫婦として困難を共に分かち合えますように」
そこでいったん言葉を切ると、改めてイノリは僕を見る。大人びた巫女のような表情と、年相応の少女の恥じらいが、そこには同居していた。
「それが私の、雪人さんへの個人的な誓いと願いです」
照れたような小さな笑みが、唇の端からもれた。イノリのその言葉と、その笑顔。二つが合わさると、もう限界だった。
亀裂の入ったダムが水圧に負けるようにして、僕の心の中の何かが決壊した。
一歩、彼女に近づくと――――
「ゆ、雪人さん!?」
思わず、僕はイノリをぎゅっと抱きしめてしまった。
「あの、ちょっと、く、苦しいです…………」
両腕で上半身をしっかりと抱き止められ、かすかにイノリがもがく。腕に込めた力が強すぎたのだ。
「ごめん……ちょっと、我慢ができない…………」
分かってはいる。華奢なイノリにとって、本気で抱きしめられると苦しいということくらい。けれども、手をほどくことができない。力をゆるめることができない。
「ごめんね……でも……僕は……僕は…………」
そして、ようやくイノリは気づいたようだった。
「雪人さん、泣いていらっしゃるんですか…………」
「……少しだけ」
念のため書いておくけれども、別に僕は号泣しているわけじゃない。けれども泣いていないと言ったら嘘になる。頬を伝う涙の感触は、誰よりも僕自身が気づいている。泣いていることを認めるのは恥ずかしいけれども、イノリに嘘はつけない。
「ありがとう、イノリ。君は僕を、僕個人を、そっくりそのまま、受け止めてくれたんだ」
こうやって、自分を丸ごと他人に肯定してもらえたのは初めてだった。これまで僕は国際異邦研究機関の下で勉強を続け、実技を重ね、試験を突破してきた。そこで僕たちを振り分けているのは、実力と点数をデータとして累積し、判断する機械的な意志だ。
もちろん、ただ単に一番点数の高い人間を異邦に行かせるだけの単純なものではない。メンタル面や、個人の人柄、人格も考慮には入れられる。けれども、たとえそうであっても、最終的には人を順番に並べ、その中から一番優れたものを選ぶ行為だ。競争の果てに合格者と不合格者を選り分ける二元論の結果だ。イノリはそれをしなかった。
試験や実技の点数。評価や成績などどこにもない。ただ、夫としての僕を、僕のそのままを、彼女は受け入れてくれたのだ。そのことが分かると、どうしても涙を抑えることができない。
「だって、いつも雪人さんが私にそうして下さったんじゃないですか」
いつの間にか、イノリの手が僕のうなじに当てられる。イノリの方も、僕を抱きしめてくれた。
力はない。ただ触れられているという感触が伝わるだけだ。けれども、それだけで充分すぎるほどだ。
「そうだっけ?」
「ええ、雪人さんは気づかなかったんですか。私にいつもおっしゃって下さった言葉のすべては、私をそっくりそのまま受け止めてくれた言葉だったんですよ。まだ小さくて、未熟で、五つ星の私を、全部。――全部です」
耳に口付けするようにして、イノリの口が寄せられる。
そうだったのか。イノリに接してきたように、僕は接せられた。イノリの言葉は、僕が言っていたことを自分なりに解釈して、こちらに返してくれたものだったのか。
僕は膝をついて、深くイノリの体を腕に抱く。それに応じるようにして、イノリはぎゅっと僕の胸の内に体を寄せてくれる。
顔と顔が、髪と髪が、そして頬と頬が触れて、お互いの呼吸が音と肌で分かるくらいまで近づく。はずれの草原で、誰にも気兼ねすることなく、僕たちはお互いをすぐ隣に感じあう。
たとえ、これが一年間だけのものであったとしても。
今この瞬間だけは、僕たちは本物の夫婦となれたのかもしれない。
やがて僕とイノリは簡易テントに戻って、短い眠りについた。あっさりと、それこそスイッチが切り替わるような早い眠りだ。隣のイノリが寝付いたかどうかさえ、僕は分からなかった。それだけ、安心していたのだろう。隣にいる相手は、何もかも気を許して大丈夫だと、心の奥底から信頼していたのだから。
◆◇◆◇◆◇
〈倒木の分かれ道〉で、こちらに向けてずっと手を振り続ける二人と別れることになった。アトリヘルは心を込め、かつ全身を使ってぶんぶんと。一方ヒダルキは、雇い主に付き合って軽く。
「また会おう! 文梓に来たらぜひ私の屋敷に来てくれ! どんな時であろうとも必ず歓迎しようじゃないか!」
片手を口に当てて、アトリヘルは大声でそう叫ぶ。決して叫ばなければ聞こえない距離でもないのに、大げさな人だ。
「道中、神々の加護のあらんことを」
ヒダルキの挨拶は、簡潔ながらも礼儀正しいものだった。静かに一礼するその仕草と、なによりも彼の渋い声音が記憶に残りそうだ。
「いい人たちでしたね」
「ああ。とてもいい人たちだった」
二人の姿が見えなくなる位置に来てから、ようやく僕たちは振り返ることをやめて、前だけを向く。鏡拾いの湖で初めて出くわしただけの、詩人とその付き添いというエルフとトカゲ人のコンビ。短い旅の仲間だったけれども、こんなに素敵な時間を過ごせるとは思わなかった。
別れ際にアトリヘルは例の椿の花の形となった金貨を渡そうとしたけれども、僕たちは受け取らなかった。変性させたのはイノリだけど、持ち主は彼だ。この短い旅を思い出す記念品になってくれたら嬉しい。
「それじゃあ帰ろうか」
「はい」
僕はそれとなくイノリに向かって手を差し出す。それだけで意図を感じ取ってくれたようだ。
はにかみつつも、イノリは僕と手をつないだ。握手するような形だ。
「いや、違うんだ」
「え?」
「手をつなぐ時は、こうするんだよ」
そっとイノリの手をほどいてから、改めて僕は彼女と手をつなぎ直した。より深く、指を絡めるように。指の股の部分に、他の人の指が触れる経験したことのない感覚。くすぐったいような、こそばゆいような感じだ。
「……ちょっと、恥ずかしいですね」
「そのうち慣れるさ」
「雪人さんも、慣れていない様子ですけど……」
努めて平静を装ったのだが、あっさりとイノリには見抜かれてしまった。けれども仕方がない。手をつないで、一緒に歩いてみたかったのだから。そして、思った通り、その感じは悪くない。
「そりゃあまあ、初めてだから」
「なら、私と同じなんですね」
「そう、同じさ。同じなんだよ」
はからずして、僕は自分の願いを叶えられた。やっと、イノリから「同じ」という言葉を聞くことができたのだ。ずっと、イノリは僕と自分を比べて、自分の方が劣っているという感覚に囚われていた。
短い旅行を通して、彼女のその感覚を、ほんの少しだけ和らげることができたのだろうか。だとしたならば、この新婚旅行はすばらしい結果だった。ようやく、僕とイノリは、同じ位置に立てたのかもしれないのだから。
そうして僕たちは帰路につく。
よろめき谷の奥、巣立ち山の上にある僕とイノリの家に。
僕たちの居場所がある、大事な我が家に。
イノリ。
彼女は花乙女。
花と共に在り、花と共に生きる少女。
今、そのつぼみはようやく開いたばかりだ。
この異邦で、これから一年の間何が待ち受けているのかは分からない。
けれども、若枝ノ君として僕は彼女の側にずっといるだろう。
その花が開ききるまで。
そしていずれ手折られ、枯れるその時まで。
――それが花と枝の、定めなのだから。