第九話 勝利、そして予感
ガイウスとの一件から、数日が過ぎた。
ヘレナは、あの廃村から少し離れた、川沿いの小さな町に滞在していた。旅の疲れを癒やすというよりは、前世の真実を知ったことで、頭の中を整理する時間が必要だった。
(あの組織……。まだ、諦めたわけではございませんでしょうね)
ガイウスの去り際の言葉を思い出すたび、油断してはいけないという緊張感が、胸の奥で燻り続けていた。それでも、ヘレナの足取りに、迷いはなかった。
「——お客さん、えらく強いんだってな」
宿の食堂で、主人がそんな話を振ってきた。噂は、思いのほか広く伝わっているらしい。
「あら、どちらでお聞きになりましたの」
「近くの村から来た行商人が話してたよ。廃村で、恐ろしい魔法使いの一団を、たった一人でやっつけた令嬢がいるってな」
「随分と、話が大きくなっておりますこと」
ヘレナは苦笑した。噂というものの伝わり方が、良くも悪くも自分を追いかけてくる。前世では自分を陥れた噂が、今世ではこうして、自分を守る評判に変わっている。皮肉なものだと思った。
***
その日の夜、ヘレナは宿の部屋で、静かに窓の外を眺めていた。
月明かりが川面を照らし、穏やかな水音だけが聞こえてくる。旅を始めてから、随分と長い時間が経った気がした。牢の中で誓った決意、廃教会での古文書との出会い、トビアスとの出会い、レイフとの穏やかな日々、そしてガイウスとの対決——全てが、今のヘレナを形作っている。
(前世の記憶が蘇ったあの夜、まさか、ここまで来られるとは思っておりませんでしたわね)
窓辺に頬杖をつきながら、ヘレナはふと、これまでのことを振り返った。
(守りたいものが、増えましたわ。トビアス、レイフ様、この旅で出会った、たくさんの方々……)
前世の自分には、こんなにも多くの繋がりはなかった。婚約者にすら見捨てられた、孤独な貴族の娘。それが今は、行く先々で誰かと出会い、誰かを守り、誰かに助けられている。
(この生き方を、選んで良かった)
心の底から、そう思えた。
***
窓辺でまどろみかけた、その時だった。
不意に、胸の奥に、これまで感じたことのない感覚が走った。
(……何、これは)
ずきん、と、心臓の奥が疼くような感覚。同時に、遠くから——とても遠くから、誰かが自分を呼んでいるような、そんな気配を感じた。
(誰か……わたくしを、呼んでおりますの?)
目を閉じて、その気配に意識を集中させる。声は聞こえない。けれど、確かに何かが、自分を求めている。切実な、切羽詰まった——助けを求めるような、そんな気配だった。
(この感覚……前にも、どこかで)
思い出そうとしても、はっきりとした記憶にはならなかった。ただ、胸の奥の疼きだけが、じわじわと強くなっていく。
ヘレナは、静かに手のひらを見つめた。
(わたくしの力は、誰かのために使うと決めましたわ。もし本当に、誰かが助けを求めているのなら——)
ふと、手のひらに、微かな光が灯った。
「……あら」
驚いて、ヘレナは自分の手を見つめた。呪術魔法とは、明らかに違う種類の光。もっと温かく、もっと——懐かしい感覚のする光だった。
(これは、一体……)
光は、すぐに消えた。それと同時に、胸の奥の疼きも、潮が引くように静まっていった。
ヘレナは、しばらくその場から動けなかった。
(今のは、何だったのでしょう……)
答えの出ない問いを抱えたまま、ヘレナは窓の外の月を見上げた。長い夜だった。けれど、なぜか、悪い予感はしなかった。むしろ——。
(また、誰かと出会う予感が、いたしますわね)
根拠のない、けれど確かなその予感を胸に、ヘレナはその夜、静かに眠りについた。




