第八話 最大の敵 そして力の覚醒
老司祭の忠告から、数日が経った。
ヘレナは、神殿都市を離れてから訪れた小さな町で、奇妙な違和感を覚えていた。
(……見られておりますわね)
最初は気のせいかと思った。けれど、市場で買い物をしていても、宿で休んでいても、視線の気配が離れない。振り返っても、それらしい人影は見つからない。けれど、確かに何者かに、監視されている。
老司祭の言葉が、脳裏をよぎった。
「あなた様を"利用しよう"とする輩も、少なからずおるでしょうからな」
(やはり、来ましたのね)
ヘレナは、覚悟を決めて宿を引き払い、あえて人気の少ない街道へと足を向けた。誘われているのなら、いっそこちらから応じてやろうという心づもりだった。
***
街道を外れ、廃村となった集落に差し掛かったところで、それは姿を現した。
「——ようやく、腰を据えてお会いできましたな。ヘレナ・エンヴァークラウン殿」
崩れかけた家々の間から、黒い外套を纏った男が姿を現した。整った顔立ちに、油断のない笑み。貴族然とした佇まいだったが、その目の奥には、値踏みするような冷たさが潜んでいた。
「あら、随分と念入りな尾行でしたこと。お名前を伺っても?」
「これは失礼。私はガイウス。……とある筋の意向を受けて、動いている者です」
「とある筋、ですの」
「魔女狩りの制度を、裏で管理している者たちがおりましてな。あなたのような、規格外の力を持つ者は、我々にとって、実に——魅力的な素材なのですよ」
素材、という言葉に、ヘレナの目がすっと細くなった。
「わたくしを、道具として使おうと仰るのですね」
「使う、とは人聞きが悪い。共存共栄と申しましょうか」
ガイウスは、値踏みするような視線をヘレナに向けたまま、続けた。
「実を言えば、我々があなたに目をつけたのは、今世が初めてではございませんでな」
「……何を、仰いますの」
ヘレナの声に、初めて明確な緊張が滲んだ。
「百年前、とある令嬢に、心無い噂が立ったことがございました。婚約を妬まれ、魔女の疑いをかけられ、彼女は——処刑された」
「……!」
「あの噂、どこから出たものか、ご存知でしたかな? ……我々の、先代が流したものですよ。将来、規格外の力を秘めた者が現れるやもしれぬ——その芽を、早いうちに摘んでおくために」
息が、止まりかけた。
(前世のあれは……単なる嫉妬による噂ではなく……)
ガイウスは、愉悦を隠しもせずに続けた。
「もっとも、あの時は少々、手が早すぎましてな。摘み取るはずの芽を、そのまま散らせてしまった。……今世で、こうして見事に育っているとは、正直、我々も驚いておりますよ」
怒りとも呼べない、もっと冷たく、深いものが、ヘレナの胸の奥から込み上げてきた。
「あなた方が……。あなた方の"先代"とやらが、わたくしの前世を、壊しましたのね」
「壊した、とは人聞きが悪い。刈り取ろうとしただけです。……もっとも、失敗しましたがな」
ガイウスは、薄く笑った。
「代わりに、こうして今世、我々の"目的"のために力を提供していただければ、その代わり、これまでの罪状は全て撤回いたしましょう。晴れて、自由の身になれますぞ」
ヘレナは、しばし沈黙した。それから、静かに——けれど、はっきりとした声で答えた。
「お断りいたしますわ」
「……ほう?」
「わたくしの力は、誰かの都合の良い道具になるために、会得したものではございません。守りたいもののために、自らの意志で選び取った力ですもの。あなた方の"目的"とやらに、貸すつもりは毛頭ございませんわ」
ガイウスの笑みが、わずかに歪んだ。
「賢明ではありませんな。我々に逆らってどうなるか、ご存知ないと見える」
「存じませんわね。ただ——」
ヘレナは、一歩前に出た。
「わたくしを"魔女"と呼んで裁こうとした者たちも、わたくしを"素材"として利用しようとする者たちも、根っこは同じですわ。他人の人生を、自分たちの都合で好き勝手に定めようとする——その傲慢さが、わたくしは何より許せませんの。……前世でわたくしから全てを奪った者たちの正体が、あなた方だったというなら、なおのこと」
言い終える頃には、周囲の空気が、ぴりりと張り詰めていた。
「……口の減らないご令嬢だ。仕方ない、少々手荒な真似をさせていただきましょう」
ガイウスが片手を掲げると、廃村の陰から、黒い外套の男たちが次々と姿を現した。十人はいるだろうか。全員が、隠しきれない敵意を漂わせている。
「あなた一人の力がいかほどのものか、ここで見定めさせていただく。抵抗するなら——力ずくで頂戴するまでです」
「……そう」
ヘレナは、ゆっくりと息を吸った。
(本気で、参りますわよ)
***
最初に飛びかかってきた男の足元が、音もなく黒く染まった。棘のような影が地を這い、男の足首を絡め取る。悲鳴を上げて転倒した男を見て、他の男たちが一瞬怯んだ。
「怯むな、たかが一人だ! 囲め!」
ガイウスの号令で、男たちが四方から包囲してくる。ヘレナは冷静に、周囲の気配を読み取った。
(一人ひとりを狙っていては、間に合いませんわね)
これまで、威嚇程度にしか使ってこなかった力。けれど、トビアスを助けたときも、魔女狩りの仕組みを知ったときも、ヘレナの中で、その力は少しずつ育ってきていた。今なら——。
「散り給え」
短く紡いだ言葉と共に、ヘレナを中心に、黒い影が波紋のように広がった。触れた者の足を止め、動きを縛る、面としての呪術。次々と男たちの動きが鈍り、地に膝をついていく。
「な、なんだこれは……体が、動かない……!」
「これしきで——!」
それでも向かってこようとした一人に、ヘレナは静かに手をかざした。
「もう、諦めなさいませ」
慈悲深いとさえ感じられる声。その手のひらから放たれた力は、容赦なく男の意識を刈り取った。崩れ落ちる体を見て、残りの男たちは完全に戦意を失った。
「……ば、化け物か……」
誰かが呟いた声に、ヘレナは静かに首を振った。
「化け物ではございませんわ。ただ、守りたいもののために、力を振るう者——それだけですもの」
***
部下たちが次々と倒れていく様を、ガイウスは油断なく見つめていた。
「……なるほど。噂に違わぬ、いや、それ以上の力だ」
「まだ続けますの?」
「——いや」
ガイウスは、意外にもあっさりと両手を上げた。
「今回は、これで退かせていただきましょう。ですが、エンヴァークラウン殿。我々のような者は、あなたが思う以上に、この世界のあちこちに根を張っておりますぞ。……先代の失敗を、我々が繰り返すとは思わぬことです」
含みを持たせた言葉を残し、ガイウスは倒れた部下たちを連れて、闇の中へと姿を消していった。
静寂が戻った廃村で、ヘレナは一人、大きく息を吐いた。
(……疲れましたわね)
初めて、これほど本格的に力を振るった。全身に、心地よい疲労感と、それ以上に——前世の真実を知った、重い衝撃が残っていた。
(あの噂も、あの処刑も……わたくし自身の運命ではなく、誰かの都合で仕組まれたものでしたのね)
怒りは、不思議なほど静かだった。それよりも、胸の奥に強く根を張ったのは、一つの確信だった。
(それでも——わたくしは、わたくし自身の意志で、ここに立っておりますわ。誰に仕組まれた運命だろうと、それをどう生きるかは、わたくしが決めますもの)
夕闇に染まりゆく廃村を後にしながら、ヘレナは静かに、けれど確かな決意を胸に抱いていた。




