第十話 王宮からの誘い
旅を続けながら、ヘレナはあちこちの町で困っている人々に手を差し伸べる生活を送っていた。トビアスに会いに孤児院を訪ねたり、道中で出会った旅人と言葉を交わしたり——前世では知らなかった、穏やかな充足感が、日々の中に満ちていた。
(レイフ様、お元気にしていらっしゃるかしら)
ふと、そんなことを思う自分に、ヘレナは少し驚いた。あの町を発ってから、随分と時間が経っていたが、時折、レイフの穏やかな笑顔が、脳裏をよぎることがあった。
(お世話になった方ですもの。気になるのも当然ですわね)
そう結論づけて、ヘレナは旅を続けていた。
***
その報せを耳にしたのは、とある宿場町でのことだった。
「聞いたか、王都の話」
「陛下が、急な病で崩御されたそうだ」
「跡継ぎがいらっしゃらないから、大変なことになっているらしいぞ」
食堂の隅で交わされる噂話に、ヘレナは思わず耳を止めた。
(王が……崩御……)
この国の王には、実子がいなかった。かつてヘレナが婚約していた王太子は、ヘレナが脱獄したしばらく後に、流行り病でこの世を去っていた。以来、王には他に子がなく、次の跡継ぎは、長らく決まらないままだったという。
(まさか……)
ヘレナの脳裏に、レイフの家名がよぎった。アシュフォード家。前世の記憶にある、王家の分家。
嫌な予感がして、ヘレナは詳しい話を求め、宿の主人に尋ねてみた。
「あぁ、その話かい。王家に近い血筋の家から、急遽跡継ぎを立てることになったらしいんだが……」
主人は、声を潜めて続けた。
「アシュフォード家が、その筆頭候補だそうだ。ただ、長男殿はもう別の家を継いでいらっしゃるし、次男殿は、ご病気で臥せっておられるとかで」
「それでは……」
「三男のレイフ様が、次の王に指名されることになりそうだ、という話だよ」
ヘレナは、しばらく言葉を失っていた。
(レイフ様が……王に……)
***
いてもたってもいられず、ヘレナはアシュフォード家の屋敷へと向かった。到着した頃には、既に屋敷の様子は一変していた。物々しい警護の兵士、慌ただしく行き交う使用人たち——以前訪れたときの、穏やかな空気は、すっかり緊迫したものに変わっていた。
「ヘレナ様……!」
案内を請うより早く、レイフの方から駆け寄ってきた。以前よりも、少し疲れた様子だったが、その瞳には確かな光が宿っていた。
「レイフ様。突然お伺いして、申し訳ございません。噂を耳にして……」
「いえ、来てくださって嬉しいです。……本当に」
レイフは、そう言って、少しだけ表情を緩めた。
「王宮に上がる準備で、慌ただしくしておりまして。あまり、お構いもできませんが」
「いいえ。それより……レイフ様。本当に、王位をお継ぎになられますの?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「正直、荷が重いと思わぬわけではありません。ですが、これも巡り合わせです。この国のために、できることをする——それだけです」
その横顔に、以前とは違う、確かな覚悟が滲んでいた。ヘレナは、その姿を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「レイフ様なら、きっと良い王様になられますわ」
「……そう仰っていただけると、心強いです」
***
庭の東屋で、二人はしばらく静かに言葉を交わした。かつて花を摘んだ、あの庭だった。
「王位を継ぐとなると、これまでのように、気軽にお会いすることも難しくなるかもしれません」
レイフは、少し寂しげに言った。
「王宮での暮らしは、何かと制約も多いでしょうから」
「そうですわね……」
「ですから」
レイフは、意を決したように、ヘレナをまっすぐ見つめた。
「もし、次にヘレナ様が私を訪ねてくださることがあれば——この屋敷ではなく、どうか、王宮を訪ねてきていただきたいのです」
「王宮を……?」
「はい。……その時は、この屋敷の客人としてではなく」
レイフは、そこで一度、言葉を切った。頬に、微かな赤みが差していた。
「王宮の主として、あなたを、お迎えしたく思っておりますので」
その言葉には、これまでのどんな贈り物よりも、明確な想いが込められていた。使用人たちが、遠くから固唾を呑んで見守っている。
しかし、当のヘレナは——。
「王様におなりになるなんて、大変名誉なことでございますわね。レイフ様なら、きっと素晴らしい王様になりましてよ。……わたくしも、いつか王宮の噂を耳にしたら、ぜひ見学に伺いたいですわ。そういえば、以前、少しばかり縁があって、何度か訪れたことがございますの。大広間の見事な調度の数々、今でもよく覚えておりますわ」
「見学……」
完全に、見当違いの方向で受け取られていた。庭の陰で、使用人たちが揃って肩を落とすのが見えた。
(旦那様……。あれだけはっきり仰ったのに……)
(ヘレナ様、やはり、恋愛方面には本当にお気づきにならないのですね……)
「……えぇ、そうですね。ぜひ、見学にいらしてください」
レイフは、深く息をついてから、諦め半分、けれど不思議と楽しそうに、そう答えた。
(この方の、こういうところも……好ましいと思ってしまうのだから、困ったものだ)
***
数日後、ヘレナは再び旅立つことになった。
「王宮でのお勤め、頑張ってくださいませ、レイフ様」
「ええ。……ヘレナ様も、どうかお気をつけて」
門の前で、二人はしばし見つめ合った。レイフの目には、まだ伝えきれていない想いが、確かに残っていた。それでも、彼はそれ以上、言葉を重ねなかった。
「いつか、王宮に伺う日を楽しみにしておりますわ」
「……えぇ。お待ちしております」
レイフの返事には、ヘレナが気づいた以上の意味が込められていたが、それに気づく日は、まだ先のことだった。
馬車が走り出す。窓の外に流れる景色を眺めながら、ヘレナは、ふと呟いた。
「レイフ様、良い王様になられますわね。……いつか、本当に見学に伺いたいものですわ」
その言葉が、いつか違う意味を持つ日が来ることを、ヘレナはまだ、知らなかった。
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