第六話 守られる令嬢、されど
夜会の空気が、少しずつ和やかさを取り戻し始めた頃だった。
コンラートは、先程の一件で恥をかかされたことが、よほど腹に据えかねたのだろう。人目を盗むようにして、ヘレナの前に再び姿を現した。
「——エンヴァークラウン様、と仰いましたか」
愛想の欠片もない声だった。ヘレナは、静かに振り返った。
「えぇ、いかがなさいまして?」
「先程は、レイフ殿のお陰で、随分と守っていただけたようですが」
コンラートの口元に、粘着質な笑みが浮かんだ。
「守ってもらわねば、何もできない女だ、と証明されたようなものではありませんかな。噂の魔法とやらも、案外、口だけかもしれませんね」
その挑発めいた言葉に、周囲の空気が、再びざわめき始める。ヘレナは、静かにコンラートを見つめた。怒りはなかった。ただ、呆れに近い感情が、胸の内をよぎった。
「あら。証明が必要でしたら、いくらでも差し上げますわよ」
「——何?」
「先程のあなたの態度、目に余るものがございました。せっかくですから、この場をお借りして、少しばかり——お覚悟は、よろしくて?」
その言葉に、コンラートの顔から、初めて余裕が消えた。
「な、何を——」
「グラス、お借りいたしますわね」
ヘレナは、近くの給仕の盆から、空のグラスを一つ取り上げた。それを、コンラートの目の前、宙に浮かせる。
「これしきの余興で、驚かないでくださいませ」
ヘレナが指先を軽く動かすと、グラスの周囲に、ごく僅かな黒い影が纏わりついた。次の瞬間、グラスは、まるで見えない力に握り潰されたかのように、粉々に砕け散った。破片は、床に落ちる前に、ヘレナの意志一つで、綺麗に宙で静止し、そのまま塵となって消えていった。
——会場に、静寂が落ちた。
「これは、ほんの一例ですけれど。もし、わたくしが本気であなたに"証明"して差し上げるとしたら——このグラスが、あなたのお召し物になっていたかもしれませんわね」
ヘレナは、優雅に微笑んだ。その笑みが、コンラートには、これまで見たどんな威嚇よりも恐ろしく映った。
「わ、私は、そんなつもりでは——」
「あら、つもりがなくとも、口にしてしまった言葉は消えませんもの。それに」
ヘレナは、一歩、コンラートに近づいた。
「先程、わたくしの育ちが卑しいと仰いましたわね。生憎、わたくしは前世も含めて、由緒正しい公爵家の生まれでしてよ。あなたの子爵家など、比べるのもおこがましいくらいに」
これは、多少の誇張と皮肉を込めた挑発だったが、その場の貴族たちには、十分すぎるほど効果的だった。あちこちで、押し殺した笑い声が漏れる。子爵家の格式を鼻にかけていたコンラートにとって、これ以上ない屈辱だった。
「く……っ」
コンラートは、真っ赤を通り越して青ざめた顔で、何も言い返せないまま、震える拳を握りしめていた。
「今宵は、これくらいにしておいて差し上げますわ。次にお会いする時までに、少しは、殿方らしい振る舞いというものを、学んでいらっしゃると良いですわね」
ヘレナは、最後にそう告げると、優雅に一礼し、コンラートに背を向けた。
その後ろ姿を、会場の誰もが、感嘆と、どこか痛快な思いを抱きながら見送っていた。
***
「ヘレナ様……。まさか、ご自身でやり返されるとは」
夜会の喧騒から少し離れた場所で、レイフが小さく笑いながら声をかけた。
「あら、レイフ様が庇ってくださったので、少し調子に乗ってしまいましたわ」
「いえ……。実に、痛快でした」
レイフは、心底楽しそうに笑った。
「あの手のグラスの割り方、初めて拝見しましたが。もし本気を出されたら、一体どうなってしまうのか、少し恐ろしくもありますね」
「あら、わたくし、本気を出すのは、大切なものを守る時だけと決めておりますの。今日のは、ほんのお灸ですわ」
ヘレナは、悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔に、レイフは思わず見惚れてしまい――そんな自分に気づいて、慌てて視線を逸らした。
「……本当に、あなたという方は」
「あら、何か?」
「いえ。……何でもありません」
言葉を飲み込むレイフの様子に、ヘレナはやはり、何も気づかないまま、小さく首を傾げるだけだった。
その夜、コンラートが早々に会場を後にしたことは、言うまでもない。
***
夜会の間中、レイフはさりげなく、けれど決してヘレナから離れなかった。飲み物を運び、話し相手が偏らないよう気を配り、けれど誰よりも長く、彼女の傍らに立ち続けた。
夜会が終わり、皆が寝静まった頃。屋敷の裏庭、ヘレナが一人で夜風に当たっていると、レイフがそっと近づいてきた。
「ヘレナ様。少し、よろしいでしょうか」
「あら、レイフ様。どうかなさいまして?」
「……いえ、その」
レイフは、何かを言いかけて、結局は言葉を飲み込んだ。
「今宵は、少々差し出がましい真似をいたしました。他の方々を、あのように遠ざけるような」
「まあ、そんな。助けていただいたと思っておりますわ」
「……それなら、良かった」
レイフは、小さく息をついた。それから、意を決したように続けた。
「ヘレナ様と過ごす時間は、とても心地よいものだと、それだけをお伝えしたく」
「まあ、それは光栄ですわ。わたくしも、レイフ様のお心遣いには、いつも助けられておりますもの」
屈託のない笑顔で返すヘレナに、レイフは苦笑した。
(この方は、本当にお気づきになっていないのだな……)
それでも、無理に想いを押し付けるつもりはなかった。ヘレナが背負っているものの重さは、共に過ごすうちに、レイフにも薄々伝わっていた。彼女には、まだ成すべきことがある。それを邪魔したくはなかった。
「ヘレナ様。もし、いつか旅を終えられたなら――その時は、また会いに来ていただけますか」
「ええ、もちろんですわ。レイフ様には、大変お世話になりましたもの」
ヘレナは、何の含みもなく、快く頷いた。
(あぁ……この鈍感さも含めて、お慕いしているのだが)
レイフは、その返事だけで十分だというように、静かに微笑んだ。
***
数日後、ヘレナは旅立ちの支度を整えていた。
出立の朝、レイフは、屋敷の誰よりも早く起きて、旅の道中に使えるようにと、丁寧に整えられた荷物を用意していた。保存の効く食料、上質な布地の外套、そして、道中の宿を紹介する手紙まで。
「レイフ様、こんなに……」
「大した物ではございません。旅の安全を、少しでもお祈りできればと」
差し出された荷物の中に、一輪だけ、小さな花が添えられていた。庭に咲いていたのと同じ、あの花だった。
「あら、これは……」
「……お守り代わりに。それだけです」
レイフは、それ以上何も語らなかった。
「短い間でしたが、大変お世話になりましたわ、レイフ様」
「いえ、こちらこそ。……どうか、お気をつけて」
門の前で、レイフはヘレナを見送った。馬車が見えなくなるまで、その場を動かなかった。
***
「レイフ様、よろしかったのですか。お気持ちをお伝えせずに」
付き人の言葉に、レイフは小さく首を振った。
「今はまだ、いい。あの方には、成すべきことがある。それを終えられた時——もう一度、想いを伝える機会があれば、それでいい」
馬車の中、ヘレナは荷物に添えられた花を、そっと手に取った。
「レイフ様……良い方でしたわね。またお会いできたら嬉しいですわ」
それが、友人としての感情以上の何かだとは、露ほども気づかないまま。ヘレナは、その花を大切に鞄にしまい、次なる目的地へと、意識を向けていた。
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