第三話 初めての行使、そして嘲笑う貴族たち
古文書を手に入れてから、ヘレナは廃教会に寝泊まりしながら、独学で術式を読み解く日々を送った。
貴族の娘としての教養はあっても、魔法の心得などまるでない。それでも、生きるためには手段を選んでいられなかった。幸い、この古文書に記された「呪術魔法」は、詠唱に多くの魔力を必要とする類のものではなく、術者自身の意志の強さ——「何を望み、何を裁くか」という明確な意志こそが、発動の鍵になるようだった。
(皮肉なものですわね。魔力ではなく、覚悟が力になるだなんて)
それなら、自分には嫌というほどある。処刑台に上る覚悟をした、あの夜から。
最初の数日は、蝋燭の炎を揺らすことすらできなかった。それでも諦めずに繰り返すうち、七日目の夜、ようやく小さな成果が現れた。祭壇に置いた枯れ枝が、ヘレナの意志一つで、音もなく灰に変わったのだ。
「……できましたわ」
誰もいない廃教会の中、ヘレナは思わず声を漏らした。
***
食料が尽きかけ、やむなく森を出て近くの町へ足を運んだ日のことだった。
薄汚れたドレス姿のヘレナは、当然のように目立った。すれ違う人々が、遠慮のない視線を向けてくる。それでも、空腹には勝てない。ヘレナは、井戸端で洗濯をしていた老婆に声をかけ、パンの端切れを分けてもらおうとした。
「あら、いい格好してるじゃない。どこの家のご令嬢が、こんな薄汚い格好してるのかしら」
背後から、甲高い笑い声が響いた。振り返ると、身なりの良い若い女が三人、こちらを見て嘲笑っている。地方領主の娘たちだろうか、それぞれ派手な装飾品を身に着けていた。
「もしかして、王都から逃げてきた、あの魔女令嬢じゃなくて?」
「やだ、本当に⁉ 処刑される前に逃げ出したなんて、卑怯者ですわね」
「魔女のくせに命乞いだなんて、みっともない」
どうやら、ヘレナの手配書か何かが、既にこの町にも回っているらしい。
(噂の広まる速さだけは、前世から変わりませんのね)
ヘレナは、静かに三人を見据えた。かつての自分なら、この場で泣き崩れていたかもしれない。けれど、今は違う。
「——魔女、と仰いましたわね」
落ち着いた声で問い返すと、女たちは一瞬たじろいだものの、すぐに勝ち誇った笑みを浮かべた。
「あら、否定しないの? やっぱり本物の魔女なのね」
「気味が悪いこと。早く衛兵に突き出さないと」
一人が、通りがかりの衛兵に向かって手を振ろうとした、その時。
「——ええ、否定いたしませんわ」
ヘレナは、まっすぐに前を見据えて言った。
「わたくし、本物の魔女ですもの」
その場の空気が、凍りついた。
「な……」
「今、何と……」
女たちの顔から、笑みが消えていく。ヘレナは静かに手を掲げた。指先に、これまで練習してきた術式の感覚を思い出す。相手を傷つけるためではない。ただ、少しばかり——己の意志を、示すためだけに。
「怖い思いをさせるつもりはございませんの。ただ、これだけは申し上げておきますわ。——無実の者を、いわれのない噂だけで断じるおつもりなら」
女たちの足元、地面が僅かに黒く染まり、小さな棘のような影が音もなく突き出した。触れれば怪我をする、その一歩手前で止まる、ぎりぎりの威嚇。まだ制御しきれていない力で、これが精一杯だった。
「ひっ……⁉」
「い、いやぁあああっ⁉」
悲鳴を上げ、三人は転がるようにその場から逃げ去っていった。
ヘレナは、掲げていた手をゆっくりと下ろした。心臓が早鐘を打っている。初めて他人に向けて力を使った緊張が、今になって全身に押し寄せてきた。
(……できました、わね)
それでも、後悔はなかった。傷つけたわけではない。ただ、理不尽に怯えるだけの令嬢ではないと、示しただけだ。
井戸端の老婆が、呆気に取られた顔でこちらを見ていた。ヘレナは、居住まいを正し、優雅に一礼した。
「お騒がせして申し訳ございませんわ。——先程のパン、まだいただけますかしら」
老婆は、しばし言葉を失っていたが、やがて小さく笑い出した。
「……あんた、面白い子だねぇ。いいよ、持ってきな」
差し出されたパンを受け取りながら、ヘレナは初めて、この世界に来てから——いや、生まれてから初めて、自分の力で何かを勝ち取ったのだと実感した。
(悪くございませんわね、この感覚)
小さな町の片隅で、ヘレナ・エンヴァークラウンの新しい生き方が、静かに始まろうとしていた。
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