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第二話 脱獄、そして古文書との出会い

 処刑まで、あと半日。

 脱獄すると心に決めたものの、ヘレナには剣術の心得もなければ、腕力もない。ただの、深窓の令嬢だ。牢を出る手段など、普通に考えれば存在しない。


(普通に考えれば、ですけれど)


 ヘレナは、牢の隅に転がっていた食事の器——固いパンが載っていた木の皿を手に取った。刃物にもならない、ただの薄い板きれ。それでも、何もないよりはましだった。

 夜半、見張りの兵士が交代する僅かな隙に、ヘレナは、寝ずの番をしていたもう一人の若い兵士に、震える声で呼びかけた。


「あの……お水を、いただけませんこと? 喉が渇いて……」


 消え入りそうな、いかにも儚げな声色。芝居がかっていると自分でも思ったが、恥じている余裕などなかった。


「……仕方ないな。少し待ってろ」


 兵士が鍵を開け、水瓶を取りに背を向けた、その一瞬。

 ヘレナは木皿を握りしめ、迷わず兵士の後頭部へ振り下ろした。


「——っ⁉」


 鈍い音とともに、兵士がその場に崩れ落ちる。


(ごめんあそばせ。恨みはございませんの。恨むなら、この理不尽な世を恨んでくださいませ)


 心の中で詫びながら、ヘレナは兵士の懐から鍵を奪い取った。手が震えていた。人を殴ったのも、牢を抜け出そうとするのも、生まれて初めてのことだった。それでも、足は止まらなかった。

 王城の裏手、使用人たちが使う目立たない通路を、記憶を頼りに進む。婚約者としてこの城に何度も通った経験が、こんな形で役に立つとは思わなかった。

 裏門の守りが手薄になる刻限を見計らい、ヘレナは夜の闇に紛れて城を後にした。


***


 行く当てなどなかった。

 ただひたすら、街道を外れ、森の中へと分け入った。貴族の令嬢が一人でどこまで歩けるものか、自分でも分からなかったが、足を止めれば全てが終わる。そんな予感だけが、ヘレナを突き動かしていた。

 夜が明ける頃には、ドレスは泥だらけになり、靴の踵は折れかけていた。それでも、ヘレナは歩き続けた。


(前世のわたくしなら、とうにここで諦めていたでしょうね……)


 自嘲しながらも、不思議と足は止まらなかった。

 三日ほど彷徨っただろうか。空腹と疲労で意識が朦朧としてきた頃、森の奥に、蔦に覆われた古い建物を見つけた。屋根の半分が崩れ、もはや教会と呼べるかどうかも怪しい廃墟だった。それでも、雨露をしのげるだけありがたい。

 ヘレナは、崩れかけた扉を押し開けて中へ入った。

 埃と、かび臭い匂い。差し込む光の中に、無数の紙片が舞っていた。


(……ここは?)


 目を凝らすと、朽ちかけた祭壇の奥に、書架が並んでいるのが見えた。長年放置されていたのだろう、大半の本は虫食いと湿気でぼろぼろに崩れている。それでも、ヘレナは吸い寄せられるようにその書架へと近づいた。


(何か、使えるものがあれば……)


 助けを求める藁にもすがる思いで、一冊、また一冊と手に取っていく。多くは読めない古語で書かれた聖典の写しだったが、その中に一冊、明らかに他と違う装丁の本があった。

 黒く変色した革表紙。金の箔押しで記された題は、既に半分以上剥がれ落ちていて読み取れない。開いてみると、そこに記されていたのは、聖典のような美しい祈りの言葉ではなかった。

 禍々しい図形。人ならざるものを模した挿絵。そして、見たこともない術式の羅列。


『——魂の在り方を歪め、力へと変換する術』

『これは救いにあらず。裁きの刃なり』

『行使する者、相応の覚悟を持て』


(……呪術、魔法……?)


 ヘレナは、その本を静かに閉じた。


(これは、いけないものですわ。分かっておりますけれど……)


 脳裏に、月夜の牢の中で誓った言葉が蘇る。


『わたくし、こんなバッドエンド、到底受け入れられませんわ』


 貴族の娘として学んだ常識も、慎みも、この世界ではあまりに無力だった。正しさを守っていれば救われる——そんな幻想は、既に一度、自分自身の処刑という形で打ち砕かれている。


(正しくあることが、わたくしを守ってくれなかったのなら)


 ヘレナは、震える手で再び本を開いた。


(今度こそ、わたくし自身の手で、運命を変えてみせますわ)


 誰に教わるでもなく、独学で読み解いていく。文字は古く、意味の通らない箇所も多かったが、それでも一つひとつ、根気強く読み進めた。空腹も、傷だらけの足も、いつしか気にならなくなっていた。

 やがて、ページの片隅に、小さく走り書きされた一文を見つけた。


『——本物の魔女とは、疑われた者にあらず。己の意志で、力を選び取った者を言う』


 その一文を、ヘレナは何度も、何度も読み返した。


(魔女、と誤解されるくらいなら……)


 唇の端が、微かに持ち上がる。前世でも今世でも、彼女は一度も本当の魔女だったことなどない。ただの、無実の令嬢だった。それなのに、周囲は勝手に彼女を魔女と呼び、裁き、殺した。


「ならば、お望み通り——本物の魔女に、なって差し上げますわ」


 誰にともなく呟いたその言葉は、廃教会の中に静かに響いて消えた。

 窓から差し込む一筋の光が、開かれたままの古文書を、そしてヘレナの横顔を、淡く照らしていた。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。ブクマ登録も、嬉しいです、ありがとうございます。大変励みになります。これからもよろしくお願いします。

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