第47話 男爵令嬢は、三つの顔に気付く
館へ戻った時には、すでに空気が変わっていた。
昨日までなら、質実剛健という言葉が似合う公爵家の館だった。
けれど今は違う。
屋敷ではない。
砦だ。
廊下を兵が行き交い、使用人たちは壁際へ寄って道を空ける。
誰も走ってはいない。
声を荒らげる者もいない。
なのに、誰もが昨日までとは違う速度で動いていた。
「こちらです」
エレノア様に促され、私はその後を追った。
通されたのは、昨日お茶をいただいた応接室ではない。
大きな机の置かれた部屋だった。
机の上には、この地方のものらしい地図が広げられている。
山や川だけではない。
街道、村、橋、森。
私には意味の分からない印まで、いくつも書き込まれていた。
その周囲を、公爵閣下とお兄様、それに何人もの騎士や文官らしい方々が取り囲んでいる。
私たちが入っても、誰も一斉に礼を取ったりはしなかった。
軽く頭を下げるだけ。
それを失礼だと思うより先に、私は気付く。
今は、そんなことをしている場合ではないのだと。
「状況は?」
エレノア様の声が変わった。
私は思わず横顔を見る。
学園で私にカーテシーを教える時の声とも違う。
市場でおばさんたちと話していた時とも違う。
「北東の二村から避難開始の報告。こちらは予定通りです」
お兄様が地図の一点を指す。
「騎馬は?」
「確認できたのは三十前後。ただし、後続は不明」
公爵閣下が答えた。
「三十なら略奪隊か」
「あるいは斥候を兼ねた先遣隊です」
エレノア様が即座に返す。
お兄様が頷いた。
「俺もそう見る。だから追い払うだけなら難しくないが、深追いはさせない」
「橋は?」
「まだ開けている。住民と家畜を通している最中だからな」
「最後の村が入ったら?」
「閉鎖準備。ただし完全封鎖はまだしない」
言葉が次々と飛び交う。
私は、ほとんど口を挟めなかった。
それどころか、話についていくだけで精一杯だった。
私の実家だって領地を治めている。
父も領主だ。
領民の顔も知っているし、収穫が悪ければどこの家が困っているのかまで分かる。
だから私は、領主というものを少しくらい知っているつもりだった。
でも――違った。
規模が違う。
私の父が治める男爵領では、領主自身が領民一人一人へ手を伸ばせる。
困っている村があれば、父が村長を呼べばいい。
橋が壊れれば、誰に直させるかまで父が決められる。
ここでは、それでは間に合わない。
村がいくつもある。
街がある。
騎士団がある。
役人がいる。
教会があり、孤児院があり、その全てが役割を持って動いている。
一人一人を動かすのではない。
人を動かす人を動かしている。
これが、大貴族。
国を動かす側の領主なのだ。
(……だからだったんだ)
私は、ようやく分かった気がした。
エレノア様が、どうして私をここへ連れてきたのか。
学園にいる時、私はずっとエレノア様を見てきた。
完璧な公爵令嬢。
誰に対しても隙を見せず、礼儀を崩さず、相手の家格や立場に合わせて言葉を選ぶ。
それが、私の知っていたエレノア様だった。
でも、この領地へ来てから、違うエレノア様を何度も見た。
市場では、領民に声を掛けられていた。
昔の失敗を笑われ、子供の頃のことをからかわれ、それでも嫌な顔一つせず話を聞いていた。
あれは――領民と向き合う顔。
そして今。
地図を前にして、避難する村の順番を確認し、橋を閉じる時刻を考え、兵の配置について父や兄と話している。
これも違う、領主として、人を動かす顔だ。
そして学園では――。
貴族として、貴族と向き合う顔。
(……三つ、あるんだ)
私は自分の手を見る。
エレノア様は、私に礼儀作法だけを教えようとしていたのではない。
王妃になるなら。
あるいは、王妃にならなくても大貴族の家へ入るなら。
その三つを、使い分けなければならない。
だから、ここへ連れてきた。
市場を見せた。
孤児院を見せた。
そして――たぶん、この光景も。
「マリエンヌ」
突然名前を呼ばれ、私は飛び上がりそうになった。
「は、はい!」
「北側の村から街まで、地図でどの道を使うと思います?」
いきなりですか!?
そう叫びそうになったが、エレノア様の顔を見て飲み込んだ。
これは試験だ。
しかもたぶん、予定していた試験ではない。
私は地図を睨んだ。
「……こちら、でしょうか」
「理由は?」
「川沿いの道の方が近いです。でも……」
私は少し迷い、別の線を指した。
「こちらの方が、森から離れています。騎馬に襲われる可能性を考えるなら……」
エレノア様は何も言わなかった。
代わりに、お兄様が口元を緩めた。
「なるほど」
公爵閣下も頷く。
「悪くない」
「え?」
「正解とは言っていません」
すかさずエレノア様が釘を刺した。
「……はい」
やっぱり厳しい。
けれど、ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ、エレノア様の口元も緩んでいた。
私は地図へ目を戻し――ふと思った。
この三つの顔。
どこかで見たことがある。
第一王子殿下だ。
貴族たちの前では、堂々とした王太子候補。
兵の話になれば、決断が早い。
そして領民や、立場の弱い人と話す時には、驚くほど近いところまで降りてくる。
全部持っている。
ただ、エレノア様よりも――。
(領主としての顔が強い……のかな)
いや。
もっと正確に言えば、人を引っ張る顔が強い。
では、第二王子殿下は?
ジュリアン殿下の顔が浮かんだ。
貴族としての振る舞いは、むしろ第一王子殿下より綺麗だ。
人の話を聞くのも上手い。
相手が何を言いたいのかを考えてから答えてくれる。
きっと領民と向き合う時も、あの方なら丁寧に話を聞く。
でも――。
第一王子殿下が人の前へ立って「こちらへ来い」と引っ張る方なら。
第二王子殿下は、皆の話を聞いて「では、こちらへ行きましょう」とまとめる方なのかもしれない。
どちらが上という話ではない。
持っているものは似ている。
でも、混ぜ方が違う。
(……だから、王位を争えるんだ)
少しだけ、分かった気がした。
そして。
なぜだろう。
ジュリアン殿下のことを考えた途端、胸が少しだけ温かくなった。
……今は関係ない。
私は慌てて地図へ視線を戻す。
そうだ。
今は勉強中なのだ。
エレノア様。
第一王子殿下。
第二王子殿下。
三人とも、三つの顔を持っている。
では――。
私は、もう一度部屋を見回した。
公爵閣下が腕を組み、兵站や補充について書かれた地図を睨んでいる。
どう見ても、今から自分で敵陣へ突撃しそうな顔だった。
その隣では、お兄様が眼鏡を押し上げながら、兵の配置について淡々と指示を出している。
どう見ても、戦場へ出るより帳簿を確認していそうな顔だった。
私は首を傾げた。
……あれ?
このお二人も、三つの顔を持っているのだろう。
持っているのだろうけれど。
(貴族の顔だけ、被り方を間違えてません?)
もちろん。
口には出さなかった。
昨日までの私なら、たぶん出していた。
少しは成長したと思いたい。




