第48話 侯爵家嫡男は、罠を疑う
「橋、だと?」
思わず、地図から顔を上げた。
「はい。上流、およそ二里。川幅が狭くなる地点です」
斥候は息を整えながら答える。
「遊牧民、およそ二十騎を確認。そのうち数名が馬を降り、周辺の木を切り出しています。丸太を川へ運んでいるのを確認しました」
「筏ではないのか?」
「いえ。両岸へ縄を渡し、丸太を固定しております。簡素なものですが、人馬を渡すための橋かと」
「……なるほど」
俺は眼鏡を押し上げ、地図へ視線を戻した。
街の北側を流れる川。
こちら側には公爵家の館があり、橋を挟んだ対岸には城壁に囲まれた街がある。
そして上流。
斥候が指し示した場所は、確かに川幅が狭い。
橋を架けるなら悪くない。
悪くないからこそ――。
「露骨すぎるな」
「何がだ」
父上が俺を見る。
「この場所です」
俺は地図を指で叩いた。
「川幅が狭い。岸も比較的緩やか。こちらからも見つけやすい」
「だから橋を架けたのだろう」
「なら、もっと隠れてやります」
俺は首を振った。
こちらに見つけてほしい。
そう考えた方が自然だ。
「橋を見せて、こちらを誘っている可能性があります」
部屋の空気が、わずかに変わった。
エレノアが地図を覗き込む。
「罠だと?」
「ああ」
俺は頷いた。
「少なくとも、その可能性は考えるべきだ」
川を渡る。
それは、攻める側にとって危険な行為だ。
まして簡易橋など、一度に渡れる人数は限られる。
こちらが守るなら、敵が渡り始めたところを叩けばいい。
半数を渡らせてから橋を落としてもいい。
それだけで、敵は川を背負って戦うことになる。
わざわざこちらから川を越え、敵の得意な場所へ出ていく必要はない。
「父上」
俺は地図から顔を上げた。
「橋は監視させましょう。渡河を始めたところで叩けばいい」
「渡らせるのか?」
「ええ」
父上の眉が動いた。
「渡河中の軍ほど脆いものはありません。こちら側へ渡り始めたところを叩く方が効率的です」
「だが、渡った者はどうする」
「数十騎程度なら、橋頭堡を築く前に潰せます」
即答した。
「こちらには館があります。街も城壁を閉じる準備に入っている。橋を渡った敵は、退路を簡易橋一本に頼ることになる」
むしろ好都合だ。
敵がこちら側へ来れば、広い草原を駆け回る遊牧民の利点を殺せる。
地形を使って追い込めばいい。
「それに」
俺は上流の一点を指す。
「これが罠なら、橋へ向かった部隊を別働隊で挟むつもりでしょう」
父上は黙った。
エレノアも何も言わない。
マリエンヌ嬢だけが、俺と父上を交互に見ている。
やがて父上が口を開いた。
「お前の言う通りだ」
「では――」
「出るぞ」
「……は?」
聞き間違えたかと思った。
「兵を集めろ。騎兵を中心に編成する。歩兵は館と橋の守りに残せ」
「父上」
「何だ」
「今、俺の話を聞いていましたか?」
「聞いていた」
「罠かもしれないと」
「それも聞いた」
「渡河されても、こちら側で押し返す方が効率的だと」
「それも分かった」
「では、なぜ出るのです」
父上は答えず、地図へ手を伸ばした。
太い指が、川の向こう側をなぞる。
「ここに村がある」
「避難命令は出しています」
「まだ全員は入っていない」
「だからこそ、こちらへ引きつけるべきです。兵を出せば――」
「アルベール」
低い声に、俺は言葉を止めた。
父上は、地図を見たままだった。
「お前の言っていることは正しい」
「なら」
「戦ならな」
俺は眉を寄せた。
父上の指が、村から街道へ移る。
畑。
放牧地。
小さな集落。
そして、その先にある川。
「一度でも、あいつらに『この川までは好きに荒らしてよい』と思わせれば、次はもっと来る」
「……」
「今年は三十。次は百。その次は三百だ」
父上の指が止まった。
「それだけではない」
今度は、川向こうにある村を指す。
「ここに住む者たちに、『川の向こうにいる間は領主が助けに来ない』と思わせるわけにはいかん」
その言葉に、俺は口を閉じた。
軍人としてなら、反論できる。
いや。
反論すべきだ。
兵力を温存する。
有利な地形で戦う。
敵の意図を読む。
敵がこちらの防衛線へ入ったところを叩く。
どれも間違っていない。
だが――。
俺は父上の横顔を見る。
この人は、将軍ではない。
「……領主として、ですか」
「そうだ」
父上はあっさり答えた。
「領民に逃げろと命じた以上、逃げる時間は俺が作る」
「だからといって、公爵自ら出る必要はありません」
「ある」
「ありません」
「ある」
「ありません」
「俺が出た方が早い」
「そういう問題ではありません!」
思わず声を荒らげた。
父上は豪快に笑った。
何がおかしい。
「安心した」
「何がです」
「お前が残るなら、俺がしくじっても街は落ちん」
「縁起でもないことを言わないでください」
「縁起で戦が決まるなら、神官を百人並べて祈らせる」
「そういう話をしているのではありません!」
エレノアが額へ手を当てていた。
マリエンヌ嬢は目を丸くしている。
……そういえば、この娘の前だった。
まあいい。
今さら取り繕っている場合でもない。
俺はもう一度地図を見る。
橋。
川。
森。
敵の位置。
考えろ。
父上を止められないなら、その前提で考えるしかない。
「出るなら、敵を追いすぎないでください」
「分かっている」
「橋を壊したら即座に撤退を」
「ああ」
「敵が逃げても追わない」
「分かった」
「森には近づかない」
「お前は俺の母親か」
「母上がいないから言っているんです!」
父上が、また笑った。
まったく。
分かっているのか、この人は。
いや。
分かっている。
分かっていて行くのだ。
それが一番始末に悪い。
「騎兵六十でいい」
父上が告げる。
「多すぎます。四十で十分です」
「少なくないか?」
「罠を疑っているのに大軍を動かしてどうするんです。機動力を優先します。戦うためではありません。橋を破壊して帰ってくるための部隊です」
「なら四十」
「弓兵を十」
「馬に乗せるのか」
「途中までは。現地で降ろします」
俺は地図の上で指を動かした。
「正面から橋へ近づかないでください。ここで二隊に分けます。弓兵を高所へ。敵が橋を守るなら射掛けて動かす」
「なるほど」
「敵が退いたら、追わずに橋を壊す」
「分かった」
「本当に分かっていますね?」
「しつこいぞ」
父上は笑いながら立ち上がった。
だが、その顔から笑みが消える。
「アルベール」
「はい」
「街を頼む」
その一言だけは、冗談ではなかった。
俺はしばらく父上を見つめる。
そして、息を吐いた。
「承知しました」
軍人としては、今でも反対だ。
罠の可能性がある。
敵が橋を見せている理由が分からない。
こちらを誘っているとしか思えない。
それでも。
次期領主としては、父上の判断も理解できてしまう。
理解できるからこそ、腹が立つ。
父上が部屋を出ていく。
騎士たちもその後を追った。
廊下から、次々と指示を飛ばす父上の声が聞こえてくる。
俺は窓へ近づいた。
川向こうには、まだ穏やかな田園が広がっている。
昨日までなら、それを見ても何とも思わなかった。
だが今は。
畑の向こう。
さらにその先にある森が、妙に暗く見えた。
「……アルベール」
エレノアの声がする。
「何だ」
「お父様なら大丈夫よ」
「ああ」
そう答えながら、俺は眼鏡を押し上げた。
父上は弱くない。
罠の可能性も理解している。
一撃を加えたら、すぐ戻るだろう。
だから大丈夫だ。
そう考えて――。
俺はもう一度、地図を見る。
橋。
その手前の森。
帰路。
そして。
父上が敵の罠に気付いて、引き返した場合。
「……待て」
俺は地図へ手を伸ばした。
もし俺が敵なら。
橋を餌にする。
こちらが食いつかなければ、そのまま渡河を試みる。
食いつけば、伏兵で叩く。
だが――。
相手が伏兵に気付き、すぐ撤退したら?
そこまで読んでいる敵なら。
「まさか」
地図の上。
父上たちが戻るはずの道へ、指を滑らせる。
森と川に挟まれた、細い街道。
待ち伏せるなら。
ここだ。
背筋に冷たいものが走った。
「伝令!」
俺は顔を上げた。
「騎兵を集めろ!」
部屋にいた者たちが、一斉にこちらを見る。
エレノアが目を見開いた。
「お兄様?」
俺は眼鏡を押し上げ、地図上の一点を睨んだ。
「……父上は、一つ目の罠には気付く」
問題は、その後だ。
「二つ目がある」
エレノアの顔が明らかに変わった。
そして……隣の少女の顔も、だ。




