第45話 第一王子は、異変に気づく
「それは誠か!」
気づいた時には、声を荒らげていた。
背後に控えていた執事が、コホン、と小さく咳払いをする。
私は我に返り、姿勢を正した。
いかん。
報告に来た兵を怯えさせてどうする。
「……すまぬ。北方の遊牧民が動いたというのは、確かなのか?」
一瞬、びくりと肩を震わせていた兵は、すぐに背筋を伸ばした。
「はい。昨日、北方より第一報が届きました。その後、確認のため走らせた斥候が、先ほど戻ってまいりました」
「規模は」
「現在確認できているだけで、騎馬およそ三十。ルクレール公爵領北部の村へ向かっているとのことです」
ルクレール公爵領。
その名を聞いた瞬間、胸の内に一人の顔が浮かんだ。
エレノア。
私は、それを慌てて押し込めた。
違う。
今、考えるべきことはそこではない。
ルクレール公爵領は、北方の遊牧民に対する王国最大の防壁だ。
あの地が乱れれば、その影響は一領地だけに留まらない。
北方の街道が閉ざされ、交易が滞り、周辺諸侯も兵を動かさざるを得なくなる。
公爵領の後背には侯爵領もある。
敵の狙いが単なる略奪でなければ、被害はさらに広がる可能性がある。
だから気になるのだ。
王子として。
王国の安寧を案じる者として。
それ以外の理由など、ない。
エレノアが今、その地にいるからではない。
そう考えた途端、胸の奥がざわついた。
私は無意識に指先へ力を込めていた。
握った拳が、わずかに震えている。
……馬鹿な。
騎馬三十程度で、公爵領がどうにかなるはずがない。
あの地には兵がいる。
堅固な館がある。
川と橋を利用した防衛線もある。
何より、ルクレール公爵がいる。
その息子もいる。
エレノア自身も、何も知らずに怯えるだけの娘ではない。
分かっている。
分かっているはずなのに、なぜ私は、彼女が鐘の音を聞いている姿など想像している。
なぜ、青ざめた顔をしてはいないかなどと考えている。
私は眉間に力を込めた。
違う。
これは心配ではない。
確認だ。
王国北方の情勢を判断するために、現地の状況を知る必要があるだけだ。
エレノアの顔が浮かんだのも、彼女が公爵家の娘だからにすぎない。
それ以上の意味など認める必要はない。
認めれば、今まで目を逸らしてきたものまで、すべて形を持ってしまう。
それは困る。
非常に困る。
「殿下?」
兵の声に、私は再び我に返った。
いつの間にか、執事がこちらを見ていた。
何も言わない。
だが、その目には、何かを見透かしたような色がある。
私は咳払いをして、兵へ向き直った。
「公爵家からの正式な要請は届いているか」
「いいえ。現時点では、襲撃の可能性を知らせる急報のみです」
「王には」
「すでに報告が上がっております」
「そうか」
私は短く答え、次に何をすべきかを考える。
「で、公爵家からの報告は」
「まだ詳細は届いておりません。
最初の煙を確認した見張り台から、すでに早馬が出されたものと思われます」
「そうか」
騎馬三十。
街を攻め落とすには足りない。
だが、村を焼き、家畜を奪い、住民を逃散させるには十分すぎる数だ。
そして、もしそれが先触れであったなら。
さらに大きな部隊が、後ろにいる可能性もある。
公爵領へ確認を取る。
近隣諸侯の兵力を確認する。
北方の街道と宿場へ警戒を出す。
そして――。
「報告、感謝する。下がってよい」
「はっ」
兵が一礼し、部屋を退出する。
扉が閉じるのを待つことすらできなかった。
私は考えるより先に歩き出していた。
「殿下、どちらへ」
背後から執事に問われたが、足を止めずに答える。
「ジュリアンのところだ」
「第二王子殿下のもとへ?」
「ああ。この件について、あやつの意見を聞く」
口にした途端、自分でもずいぶんと苦しい理由だと思った。
意見を聞くだけなら、使いを出せば済む。
わざわざ自分の足で向かう必要などない。
それでも私は、廊下を早足で進んでいた。
まったく。
北方に異変が起きたというのに、弟がどこで何をしているかも把握していないとは、兄として不覚である。
そうだ。
これは兄としての責任だ。
決して、胸の奥が落ち着かないからではない。
一刻も早く、ルクレール公爵領の状況を知りたいからでもない。
ましてや、そこにいる一人の娘の無事が気にかかっているからなどでは、断じてない。
「ジュリアンは執務室か?」
廊下に控えていた侍従へ尋ねる。
ところが、侍従は答える前から困ったように眉を下げた。
その表情に、嫌な予感がした。
「いえ、第二王子殿下は、すでに王都をご出立になられております」
私は足を止めた。
「……何だと?」
「本日早朝、ルクレール公爵領への視察のため、ご出立になられました」
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
ジュリアンが、ルクレール公爵領へ向かった。
それも、今朝早く。
私より先に。
理解した瞬間、胸の奥から声が込み上げた。
「なぜ止めなかった!」
廊下に、再び私の声が響いた。
背後で執事が、また小さく咳払いをする。
だが侍従は、今度は怯える様子もなく淡々と答えた。
「昨日、視察をお取りやめになるようお伝えするため、別の者が向かっております。その際に、ご出立の件も確認されたものかと」
「昨日だと?」
「はい」
昨日。
北方からの第一報が王都へ届くより前だ。
私は、その意味を考える。
今回の襲撃を知っていたわけではない。
だが、ジュリアンは遊牧民の動きが不穏であることを察し、視察を早めた。
しかも、私に相談すれば止められると考えたのだろう。
だから、先に父上の許可を取り、私が気づくより前に王都を出た。
私が止めるところまで計算した上で。
「やられた……」
思わず額を押さえる。
あれは昔からそうだ。
一見、こちらの言葉に素直に従っているように見える。
反論もせず、笑って頷いている。
そのくせ、気がつけばこちらが考えをまとめるより先に、必要な手を打ち終えている。
今回も同じだ。
私がエレノアのことを――。
そこまで考え、私は慌てて思考を切った。
違う。
公爵領のことを案じて動き出すより先に、あいつはもう王都を発っていた。
それだけの話だ。
胸の内にあった焦りが、急速に別のものへ変わっていく。
悔しい。
だが、同時に頭は冷えた。
すでに出立したものを、廊下で怒鳴っていても仕方がない。
「知らせてくれて感謝する。もうよい」
「はっ」
侍従を下がらせると、私は踵を返した。
「殿下、今度はどちらへ?」
執事が尋ねる。
「父上の執務室だ」
「第二王子殿下をお呼び戻しになるので?」
「北方の情勢について、王としての判断を確認するのだ」
私は即座に答えた。
嘘ではない。
王国北方で異変が起きた以上、王命による対応は必要だ。
近隣諸侯へ警戒を命じるか。
公爵領へ援軍を出すか。
そして、すでに現地へ向かっているジュリアンをどうするか。
確認すべきことはいくらでもある。
決して、あやつだけをエレノアの近くへ行かせておくのが気に入らないわけではない。
王命であれば、まだ呼び戻せるかもしれない。
可能性は低い。
父上が一度許可した視察を、何の理由もなく取り消すとは思えない。
しかも今となっては、ジュリアンが現地に近いこと自体が王国にとって有益だ。
分かっている。
分かってはいるが、何もしないままではいられなかった。
私は早足で父上の執務室へ向かう。
その背後で、下がったはずの侍従と執事が、一瞬だけ視線を交わした――ような気がした。
侍従の顔には、
――やはり、エレノア様でございましたか。
と書かれているように見える。
執事も、ごく小さく頷いた――ように見えた。
――左様でございますな。
……気のせいだ。
二人とも、そんなことは一言も口にしていない。
きっと、何も言っていない。
何も言っていないのだから、私が否定する必要もない。
そう。
断じて、ないのだ。




